_20191010_123538
サティシュ (インド)
【 1973 ~      】



サティシュは、1973年、ウッタル・プラデーシュ州ガズィヤーバードで生まれた。

サティシュは両親と共にハリヤナ州バハドゥルガルに引っ越した。


1995年2月16日午後7時30分頃、ネタージ・ナガーで、プージャ (8歳♀) と家族は外で行われている結婚の行列を見に出掛けた。

サティシュはプージャを家族の隙を見て誘拐し、強姦して首を絞めて殺害した。

殺害後、死体を芥子畑に捨てた。

同年2月26日、分解されたプージャの遺体が発見された。

プージャの父親はインド内務省に勤めていた為、警察に犯人を早く逮捕するよう圧力が掛けられた。

そこで警察はラジ・クマールという男性を容疑者として逮捕し、犯行を自白したと発表した。

ラジは18ヶ月間投獄されたの後、処刑された。


しかし、ラジが拘束されている間の同年7月11日深夜、サティシュはシータル (7歳♀) が祖母の家の前で寝ている所を誘拐する。

日付が変わった12日午前3時頃、母親がシータルがいない事に気付いた。

サティシュはシータルを強姦し、殺害した。

シータルの遺体は同年7月14日、半裸の状態で見つかった。


同年9月11日午後1時頃、ネタージ・ナガーでカルナ・エイリアス (5、6歳♀) は塩を買いに出掛ける。

エイリアスをたまたま見掛けたサティシュは誘拐し、殺害する。

エイリアスの遺体は翌日の12日にパルナラ村で見つかった。

エイリアスの遺体が見つかると、警察は連続殺人の捜査を本格的に始めた。


同年10月14日午後2時10分、ジョニー (6歳♀) が叔父スデシュと出掛けたとジョニーの母親は思っていた。

すると、スデシュが1人で戻って来た為、母親がジョニーの事を尋ねると、外で1人で遊んでいたと答えた。

母親がジョニーを探しに行くが見つからず、午後9時15分頃、警察に通報した。

翌日の15日午後2時、ジョニーの遺体が発見された。


1996年1月4日、ピンキ (6歳♀) という少女がサティシュに襲われる。

ピンキは地面に横たわった所を通行人に発見されたが、まだ生きており、病院に運ばれた。

サティシュはピンキを殺したつもりだったが、実は生きていたのだった。

ピンキはサティシュに襲われて生き残った最初の人物となった。


同年1月9日、スウェタ・エイリアス (6歳♀) が子供たちと遊びに出掛けた。

しかし、エイリアスは戻る事はなかった。

姉が自転車に乗った男性が連れ去ったと説明したが、犯人の事を上手く説明出来なかった。

エイリアスの遺体は翌日の10日にパルナラ村で発見された。

1月に立て続けに2人の少女が襲われた事に地元住民の怒りが爆発し、多くの住民が警察署の前で座り込みで抗議を行った。

警察は長官や副監察官がバハドゥルガルに残り、地域のパトロールの強化を図った。

また、警察は親に子供 (特に幼い女の子) から目を離さないよう忠告し、怪しい人物を見つけた場合、通報するよう促した。

警察は犯人が近隣のデリーに住んでいる可能性があるとし、デリー警察に連絡し捜査協力を促した。

そして、デリー警察は知的障害の可能性があるラム・バブを逮捕し「バハドゥルガル連続幼女殺人犯」とした。

デリー警察はハリヤナ州に対して発表していた報酬5万ポンド (約6万5千円) を要求した。

だが、バブ逮捕後も犯行は続いた為、犯人ではないのは明白であったが、何故か裁判で有罪判決となり、刑務所に収監された。


同年6月12日、両親と一緒に家の前で寝ていたサルマ (♀) をサティシュが連れ去る。

父親が起きて娘がいない事に気付いた。

後にサルマの遺体は家族によって運河で発見された。


1997年3月14日、ネパール人であるシャンティ (5、6歳♀) が家にいたところ行方不明となる。

翌日の15日、パルナラ村の池でシャンティの遺体が回収された。


同年6月21日、サティシュはマンジュ (7歳♀) を誘拐し、強姦して殺害した。


同年7月10日、警察はベグサライのシャンカール・クマールを逮捕した。

シャンカールがマンジュ殺害を認めたと発表した。


同年10月、コマール・エイリアス (9歳♀) が行方不明となり、同年10月8日、全裸の遺体が発見された。

コマールが殺害されると、再びシャンカール逮捕が誤認であった事が判明する。

これを知ったバハドゥルガル市民は怒りが頂点に達し、警察に対して暴動を起こした。

暴力的な民衆に対して警察は発砲し、この発砲で2人が死亡した。

中央警察の分隊が応援に駆けつけ、バハドゥルガルには多くの警察官がいた為、サティシュはしばらく犯行を控えた。


1998年9月6日、アーティ (9歳♀) が自宅の開かれた敷地内で家族の寝ていた所をサティシュは誘拐する。

サティッシュはアーティを畑の排水溝へ連れて行くと、強姦した後、首を絞めて殺害した。

アーティの遺体は3日後の9日に発見された。


同年11月19日、サティシュはソマニ (6歳♀) を誘拐し、自宅に連れ去ると2度強姦した。

そして、ソマニの首を絞めると気を失った為、サティシュは死んだと思い畑に捨ててその場を去った。

翌日の20日朝、通行人が橋の近くで泣いているソマニを発見し、警察に連れて行った。

警察は一連の事件の犯人ではと考え、ソマニは犯人は細い髭を生やした浅黒い男で、自転車で誘拐されたと話した。

そして、その日の内に警察はサティシュを逮捕した。

逮捕後、ハリヤナ州警察はデリー警察に報酬の返還を求め、デリー警察は返金した。

逮捕されたサティシュは、これまで14人の少女を強姦 (または強姦しようと) し、10人殺害した事を認めた (14人の内2人は不詳) 。

サティシュは殺害した少女の名前を誰1人知らなかった。

その為、発見された遺体の身元確認で犠牲者が判明した。

最初、警察はサティシュを「精神的に錯乱した性転換者」のように見えたと述べた。


同年12月10日から23日にかけてサティシュの精神鑑定が行われ、精神病ではなく「神経症的な性格」を持っていると結論付けられた。


同年12月22日、判事はサティシュの自白は強制によるものではなく自発的であると判断した。

しかし、後にサティシュは自白を撤回したが、いくつもの証拠がサティシュを犯人だと示しており、有罪判決となった後、終身刑が言い渡された。

だが、サティシュの犯行は死刑が妥当だとされ訴えられた。


2008年、最終的にハリヤナ州高等裁判所によりサティシュの死刑判決の要求は拒否された。

裁判所の裁定は、
「本件では被告はすでに10年間拘留されている。裁判所は死刑を科さない事が適切であると考えた。犯した犯罪は非常に凶悪であり、全ての状況を考慮した上で、グローバルな見解をとった後、非常に稀なケースの1つの可能性があります。しかし、終身刑を支持する一方で被告人には20年の実刑が完了するまで釈放されない事を指示します」
というものだった。

余談だが誤認逮捕されたバブは、30ヶ月刑務所で過ごした後、サティシュが逮捕される3ヶ月前の1998年8月16日に精神病棟のもう1人の囚人にレンガで頭を殴られ殺害された。

バブは32歳であった。

生前、バブにインタビューした警察官は、
「彼は精神的に混乱しているようには見えず、倒錯する事もありませんでした。彼は尋問を通して常に微笑み続け、70人の女性を殺害した事を告白した後も後悔する様子は微塵もなかった。ただ、私たちは彼が嘘をつているかどうかを判断出来なかった。彼は犠牲者の遺体をどのように処分するかについて非常に楽しそうに話した。歌を歌い性行為について話し、特定の映画女優について言及し、性的なジェスチャーをとった。私たちは精神科医に相談した。精神科医は『定期的な性的な空想だ』と述べた」
と話している。



《殺人数》
10人 (他4人強姦や未遂)

《犯行期間》
1995年2月16日~1998年11月19日



∽ 総評 ∽

『Bahadurgarh Baby Killer (バハドゥルガルの幼女殺人者) 』と呼ばれ、幼女ばかり10人を殺害したサティシュ。

サティシュが標的としたのは5歳から9歳であり、典型的なペドフィリアといえる。

サティシュの幼少期の詳細やどのような家庭環境だったのかわからず、何故、このような犯行を犯すに至ったのかよくわからない。

サティシュの犯行は当然酷いが、その酷さに匹敵するくらい警察の対応もあまりに酷い。

最初の犠牲者が政府高官の子供であった為、圧力に屈して強引な捜査の末誤認逮捕、次に知的障害という事を理由に誤認逮捕し、報酬を同じ警察に要求するデリー警察、相次ぐ誤認逮捕に焦り、早く犯人を捕まえたいと気がはやり再び誤認逮捕、しかも、誤認逮捕に対して怒り狂った市民が当然の暴動を起こし、それに対して発砲して2人の若者を殺害した。

これはもはや警察による快楽殺人と言っても大袈裟ではない (実際2人の若者を射殺しているし) 。

インド警察のレベルの低さ、程度の低さには呆れて言葉も出ない。

そもそも報酬というのは民間人が有力な情報を提供した場合に支払われるもので、警察が逮捕して警察に報酬が払われるというのは納得いくわけないしあり得ない。

こんな警察だからインドも陰湿なシリアルキラーが多くなるのである。