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ウラジーミル・ジューコフ (ロシア)
【 1972 ~      】



ウラジーミル・セルゲーエヴィッチ・ジューコフは、1972年6月20日、ロシア (ソ連) で生まれた。

ジューコフはロシアの貿易部門の無線技術者であり、ニジニ・ノヴゴロド支店で国際電話オペレーターとして働いていた。

仕事柄、ジューコフはロシア各地様々な都市に出張した。

ジューコフは結婚し、妻とその連れ子と生活する事となった。


ジューコフは1999年から犯行を始める。

ジューコフは出張先で強姦していた為、犯行は発覚しなかった。


2003年1月にはノヴォシビルスクで3つの強姦を犯した。


同年9月、ジューコフはチカロフスキー地区コクズネツォヴォで少女に対して強姦を行う。

ジューコフはいつも通り少女を解放するが、少女はジューコフの事を警察に通報する。

その事をテレビで見て知ったジューコフは次からは殺す事に決める。


2004年8月、ジューコフはブリズン・ボリソボとノヴィンキーでナディア (12歳♀) とビトヤ (9歳♂) を強姦し、殺害する。

そして、遺体を食料品店の出入口に閉じ込めた。


2006年6月24日、ジューコフはヴォスクレセンスコエでリダ (9歳♀) を誘拐し、強姦して殺害する。

遺体をニジニ・ノヴゴロド郊外の湖に投げ捨て、翌日発見された。


同年6月27日、ジューコフはクラースニエ・バキからオリヤを拉致すると強姦する。

しかし、ジューコフはオリヤを解放する。

オリヤは犯人や車、窓からの外の景色等をしっかりと覚えており、警察に事細かに報告した。


同年8月、オリヤからの情報が決定的な証拠となり、ジューコフは逮捕された。

ジューコフのバッグからは石膏、包帯、電気コード、キャンドルが見つかり、それらを仕事の時に持ち運んでいた。

ジューコフは子供に拷問を行い、恐怖と絶望で苦しむ目や表情を見て興奮したと話した。

また、動機についてジューコフは「好奇心」と話し、子供のポルノサイトを何時間も見ていたと語った。

ただ、最後の犠牲者を解放した事について、最終的に逮捕される事を望んでいたと述べた。

ジューコフはニジニ・ノヴゴロド、ノヴォシビルスク、ヤロスラヴリで合計32人に対する犯行を告白し、その内3人を殺害したと述べた。


2008年9月15日、ニジニ・ノヴゴロド地方裁判所で、ジューコフは3件の殺人と11件の強姦で有罪判決となり、終身刑が言い渡された。

また、裁判所は被害者家族に対し280万ルーブル (約450万円) の賠償を命じた。


2010年9月、ジューコフは2002年にゴロデツで8人から10人を強姦し、何人かの殺害を告白している (ただし立証はされていない) 。


最後に逮捕された際のジューコフの発言で終わりたいと思います。

「ほら!ラッキー!」



《殺人数》
3人以上 (他強姦30人以上)

《犯行期間》
2004年8月、2006年6月24日



∽ 総評 ∽

『The Nizhegorodsky Chikatilo (ニジニ・ノヴゴロドのチカチーロ) 』または『The Ranging Maniac (さまよう狂人) 』と呼ばれ、少なくとも3人の子供を強姦し殺害したジューコフ。

ジューコフによる被害者は30人を超え、わかっているのは少年少女ばかりであった。

性別にこだわりがない事からまさに『ニジニ・ノヴゴロドのチカチーロ』と呼ばれるに相応しい鬼畜振りである。

ジューコフはどのような家庭環境で育ったのか詳細がなくよくわからないが、幼い子供を好む典型的なペドフィリアであった (ペドフィリアは一般的に10歳以下の子供への偏愛を指す) 。

ジューコフの犯行が発覚しなかったのは、仕事でロシア国内を巡り、その都市その都市で犯行に及んだ為、なかなか逮捕出来なかったのであろう。

アメリカも全米を走り回るトラックドライバーによる犯行は発覚しにくい。

ジューコフは最初、強姦のみで殺人は行っていなかったが、被害者が警察に通報した事がわかり殺す事に決めた。

ただ、最後の被害者は解放しており、しかも、本人曰く「捕まりたかった」という事であった。

犯罪に疲れたのか、少女に逃げられた為のただの言い訳なのか何なのかよくわからないが、もし、いつも通り殺していれば発覚しなかったと思われるので、何にせよ良かったとは思う。