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コンスタンチン・チェリョムキン (ロシア)
【 1963 ~ 1993 】



コンスタンチン・チェリョムキンは、母親が30代の時に生まれた子供であった。

父親は不妊症で、その為チェリョムキンの父親は別人であった (実父は不明) 。

チェリョムキンは生まれてすぐ施設に入れられてしまう。

母親は幼稚園で働き始めたのだが、そこでの子供と親との関係を目の当たりにし、子供と母親は一緒にいる事が大切だと感じ、施設からチェリョムキンを引き取った。

一緒に生活を始めた母親だったが、チェリョムキンを過度に甘やかし、過保護であった。

チェリョムキンが欲しがる物は買い与え、望む事に何でも答えた。

チェリョムキンは思春期を迎えると、父親が不妊症であった事を知り、実の父親でない事を知る。

この事実にチェリョムキンは酷いショックを受け、精神を歪ませるきっかけとなった。

青年期を迎えると、チェリョムキンは技術者に興味を持ち、モペット (ペダル付きオートバイ) を欲しがった。

チェリョムキンは叔母にモペットが欲しいと何度も手紙を書いた。

根負けした叔母はモペットを買い与えた。

しかし、チェリョムキンは手にしたモペットをすぐに解体し、捨てた。

チェリョムキンの目的は ″興味の喪失″ であり、手に入れた物を解体する事に喜びを感じた。

また、解体すると次の物を欲するようになった。

チェリョムキンは平凡な学校に通ったが、勉強には興味を示さなかった。

その後、チェリョムキンは自動車関連の専門学校に入学した。

チェリョムキンは次に自動車に興味を持ち始め、両親は車を買い与えた。

しかし、それで満足しなかったチェリョムキンは、車を盗みに行き逮捕される。

チェリョムキンは2年間の強制労働を命じられた。

だが、チェリョムキンは反省どころか社会規範を無視し、再び盗む事ばかり考える。

しばらくして2度目の窃盗を行った。

逮捕されたチェリョムキンはヴォログダ州へ移送され、拘留中に将来の妻と出会った (拘留中のチェリョムキンがどのようにして出会ったのかは詳細不明) 。

その後、チェリョムキンは駐車場の仕事に就き、妻は子供を産んだ。

2人目の子供を産んだ時、チェリョムキンは最初の殺人を行う。


1986年、技術学校に通うスヴェトラーナ・イエフィモワ (22歳♀) の遺体を偶然通り掛かった通行人が森で見つけた。

イエフィモワは強姦され性器には多数の刺し傷があり、乳房は切除され絞殺されていた。

また、現場にはボールペンで書かれたメモが残されていた。

警察はすでに進行中でまだ解決に至っていなかったアンドレイ・チカチーロの犯行 (この時点ですでに40人以上殺害している) と結び付け、同一犯によるものだと結論付けた。

だが、実際はチカチーロの犯行とは異なり、チェリョムキンは犠牲者のお金や宝石を奪っていた (奪った物は妻に上げていた) 。

殺人前にイエフィモワを目撃した人物がおり、バスを待たずに見知らぬ車に乗り込むのを目撃していた。

実はチェリョムキンはチカチーロの犯行を知っており参考にしていた (性器をズタズタに切り裂いたりバス停で拉致する等) 。

チェリョムキンはイエフィモワをアパートで殺害後、森へ運んで燃やそうとするが上手くいかなかった。

そこで証拠が詰まった犯行現場のアパートを燃やそうとするが思い止まった。


次にチェリョムキンはエレナ・ガエバ (15歳♀) という少女を強姦し、殺害する。

ガエバもイエフィモワ同様性器をズタズタにされ、乳房は切除されていた。

ガエバは何度も刺されており、最後は首を絞められていた。

また、現場には手書きのメモが残されボールペンも見つかった。


2ヶ月後、バス停留所で高校生ターニャ・クロボスチーナ (16歳♀) が姿を消す。

クロボスチーナもこれまでの犠牲者同様、凄惨に殺害された。

ただ、遺体から車の塗料の痕跡が見つかった。

専門家は犠牲者が若くなりつつある事に犯人は危険な状態にあると示唆し、犠牲者は更に若くなるだろうと推測した。

この頃には犯行が行われたバタイスクは恐怖でパニックとなっており、警察は市民に警戒を促した。

警察は自動車関係者が犯人だと考え、バタイスク市内の従業員をチェックするが、チェリョムキンの名前が挙がる事はなかった。

それはチェリョムキンが模範的な生活を送っており、家族との良好な関係もあって容疑者とならなかった。


1988年10月、チェリョムキンは幼稚園の先生であったオクサナ・ヤコヴェンコ (♀) を殺害する。

遺体をいつもとは違い灌漑用水路に捨てた。

しかし、ヤコヴェンコは犯行の際、抵抗しており、引っ掻いた際の皮膚組織が爪から見つかった。

そして、その組織により犯人がチェリョムキンだとわかり逮捕した。

逮捕の際、チェリョムキンは抵抗せず素直に捕まった。

尋問を受けたチェリョムキンはこれまでの犯行を告白した。


1989年11月3日、裁判でチェリョムキンは死刑が言い渡された。


1993年、銃殺による死刑が執行された。



《殺人数》
4人

《犯行期間》
1986年~1988年10月



∽ 総評 ∽

『The Bataysk Maniac (バタイスクの狂人) 』または『Chikatilo′s Double (二重のチカチーロ) 』等と呼ばれ、チカチーロの犯行を真似て4人を殺害したチェリョムキン。

チェリョムキンは当時、ロストフで凄惨な殺人を繰り広げていたチカチーロの犯行を意識し、それを模倣する事で逮捕を免れていた。

性器をズタズタに切り裂き、乳房を弄び乳腺を切断するといった凄惨な犯行を本人の欲求の為ではなく真似て行うというのは異常という他ない。

ただ、チカチーロの犯行を模倣して捜査の手を免れるのはわかるが、バス停でさらうのを真似ても車で行ったり、金品を奪うといったチカチーロの犯行とは異なる行為を働いており、詰めが甘く情けないという他ない。

結局その詰めの甘さによりチカチーロより先に逮捕される事となった。

ロシア政府の発表では1987年~1997年の10年間で実に34人のシリアルキラーが確認されていた。

この時期、チェリョムキンやチカチーロをはじめ、ソ連では陰湿で恐ろしいシリアルキラーを多く輩出している。

チェリョムキンは物に愛着がなく、手に入るとそれを解体する事に喜びを得ており、対象を壊す事がより強い快感を得るという異常性であった。

専門家はチェリョムキンの犯行は妻が2人目を妊娠している最中に始まった事から、妻と性交渉出来ない捌け口として行われたと推測したが可能性はあるといえる。

また、シリアルキラーの実に90%の家庭が破綻していると言われているが、チェリョムキンの家庭はまともな家庭であった (ただし実の父親は異なっているが) 。

実の父親だと思っていた父親が違うというのは子供心には相当なショックだと思うが、その事がチェリョムキンの精神を歪ませた可能性は互いといえる。