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ジョン・テイラー (アメリカ)
【 1959 ~ 1996 】



ジョン・アルバート・テイラーは、1959年6月6日、アメリカ・ユタ州オグデンで生まれた。

父親をアルバート、母親をゲイリーンといった。

テイラーが9歳の時、両親が離婚し、テイラーは母親とコロラド州へ移動した。

その後、家族は何度も引っ越しを繰り返し、テイラーは最終的にフロリダで育った。

母親は再婚したのだが、テイラーは継父に虐待され、10代で麻薬に手を染める。

継父はベトナム戦争に参加した退役軍人で、テイラーは継父のみならず母親とも関係は最悪であった。

この時について後にテイラーは、

「彼らは長い間私を疎んじた。母親は私をコントロールしようと試みたがそれは叶わなかった」

と語っている。

テイラー13歳の時、継父をナイフで刺した。

テイラーは10代の時に妹を強姦し、肛門姦も行った。

また、妹だけでは飽き足らず、若い女の子を何人も強姦し、肛門姦を行った。

テイラーは性犯罪者として登録される事となった。


1974年、祖母と暮らす為に地元オグデンに帰ったが、すぐにフロリダへ戻った。


1977年、テイラーは銃を盗んだ為フロリダで逮捕され有罪判決が下された。


1981年12月、仮釈放となり出所するが、1982年3月に武装強盗や強姦の罪でフロリダ州フォート・ローダデールで逮捕された。

診察を受けたテイラーは「無慈悲な小児性愛者」と診断された。


1982年9月、武装強盗や強姦では無罪となるが、仮釈放義務違反で懲役15年が言い渡された。


1989年、テイラーは仮釈放となり出所すると、姉妹や実父のいるユタ州へ向かった。


同年6月23日午後3時20分頃、ユタ州ワシントン・テラスに住むシェロン・キングは、仕事を終えアパートへ帰った。

すると、寝室で横たわって動かない娘チャーラ (11歳) を発見する。

シェロンはすぐに警察に連絡し、警察の指示で心肺蘇生を試みた。

しかし、チャーラはすでに死亡しており、首には電話コードで縛られた痕があった。

チャーラの祖母バーサは、一緒にモールを訪れ、午後1時30分頃にアパートで降ろしたと供述した。

実はチャーラは翌日の24日が誕生日で、遊園地で12歳の誕生日を祝う予定であった。


同年6月25日、テイラーの妹ローリーが警察に通報し、少女殺害は兄のテイラーだと告げる。

これを受け警察はキングの家に残された指紋を採取し、フォート・ローダデール当局から提供されたテイラーの指紋と照合すると一致した。


同年6月28日午後9時頃、テイラーは逮捕され、翌朝、強盗と強姦、殺人で起訴された。

テイラーは犯行の4日前にフロリダから戻って来たばかりであった。


同年11月27日、テイラーの裁判が始まったが、テイラーは陪審員の権利を放棄した。

検察官はテイラーが少女を強姦する目的でアパートに侵入し、チャーラを寝室に追い掛け口に下着を巻き、強姦して絞殺したと供述した。

しかし、弁護士はチャーラに強姦された形跡がないと主張、テイラーは誰もいない家に強盗目的で侵入し、床にお金を見つけた時に電話に触れた為指紋が残ったと証言した。

しかし、2人の目撃者がテイラーがアパートにいた事を証言し、また、囚人マイク・ガレゴスは刑務所でテイラーが少女を殺し、その遺体を見ながら自慰行為を行ったと話していたと証言した。

チャーラの母シェロンは証人として出廷したが、隣人が娘の叫び声を聞いても何もしなかった事に怒っていると述べた (シェロンはテイラーが逮捕された日にアパートを引っ越している) 。

ウェーバー州立大学の2人の犯罪研究所の教授が、残った指紋の形状は電話コードをナイフで切り首に巻き付けた人間によるものだと述べた。

また、テイラーが犯人とする証拠は指紋しかないと弁護士は主張したが、犯行現場には他の人間が犯行に及んだという証拠は何一つなかったと主張した。


同年12月19日、テイラーには死刑判決が言い渡されたが、これはウェーバー郡裁判所で実に40年振りに下された死刑判決であった。

テイラーはユタ州の刑務所に収監されたが、閉所恐怖症であった為、普段の生活に支障をきたした。

また、あまりに退屈が苦痛であった為、高校の卒業資格を取得し、パラリーガルになる為の勉強を行った。


1995年10月、弁護士がテイラーへの控訴を終了した事を決定すると、テイラーは弁護士を解雇し、

「私が上訴の為に戦うのに弁護士は必要ない

と述べた。

ただ、この時にすでにテイラーは心臓肥大、潰瘍による出血、足の腫れなど健康状態が最悪であり、死ぬ用意がすでに出来ているとも述べた。

裁判官がテイラーに処刑方法を選ぶよう命じた。

テイラーは銃殺による死刑を選択した。

テイラーはインタビューで、

「私は殺人を犯していない」

と述べ、何故、致死量の注射による死刑を選択しなかったか問われると、

「私はまな板の魚のようにひっくり返りたくありません」

と述べた。

また、テイラーは家族についても話をし、

「私の父 (実父) は素晴らしい男だった。私が母親から聞いた父親の悪口は全て嘘だとわかった。母親は父親を悪役にしたかったのだろうが、私は母親が悪役である事を知っていた」

と話した。

そんな父親は1990年10月8日に心不全で亡くなるまで、テイラーの裁判にほとんど出席していた (そんな父親の葬式に出席したいと願ったが聞き入れらず不満を述べている) 。


1996年1月26日、銃殺による死刑が執行された。

享年36歳。

テイラーのスペシャル・ミールは、マッシュルーム、唐辛子、ソーセージ、ハムやチーズの入ったピザ、コーラであった。

刑の執行に際し、志願した5人の警察官にはそれぞれ300ドル (約4万円) が支払われた。

また、射手は5人共に同じウィンチェスターモデルのライフルが使用されたが、銃弾が入っているのは一丁だけであり、他はワックス弾が装填されていた為、射手は自分の撃った銃で射殺したかわからないように工夫されていた。

テイラーは1976年にアメリカで死刑が復活して以降、ユタ州では2人目の銃殺による死刑執行であり、このテイラーへの執行によりユタ州では銃殺による執行は禁止された。

その為、テイラーはユタ州で最後の銃殺による死刑を執行された人物であったが、2015年2月にユタ州の知事が、薬物による執行の際に必要な薬物が入手出来ない場合は銃殺による執行を認めた為、現在では薬殺と銃殺のどちらか選択出来るようになった。

また、1852年以来、ユタ州では49人目の執行であった。


最後に刑務所のインタビューで答えたテイラーの発言で終わりたいと思います。

「私は独房で1人で死にたくありません」



《殺人数》
1人 (他犯罪多数)

《犯行期間》
1989年6月23日



∽ 総評 ∽

11歳の少女を強姦し、殺害したテイラー。

テイラーは13歳で継父を刺し、実の妹を強姦するという若年にしてすでに異常性が際立っていた。

そんなテイラーは「無慈悲な小児性愛者」と診断され、異常なのはわかっているにも拘わらず、7年程度で仮釈放され惨劇が生まれてしまった。

テイラーの実父は死ぬまで法廷に出席して息子の裁判を見守った。

そんな父親をテイラーは尊敬していたようだが、母親との離婚後の父親との関係性についてはよくわからない。

ただ、それは継父や母親を嫌っていた反動と、わずか9歳で離れ離れになったほとんど記憶にない父親への憧れでそう思っていただけで、実父が人格的に素晴らしかったのかは詳細がなくわからない。

アメリカでは裁判の際、陪審員を立てる裁判と陪審員不在の裁判を選択する事が出来る。

テイラーは陪審員不在の裁判を選択したが、これは罪を認めて素直に刑に服する為ではない。

陪審員は普通の人間であり、その為、感情や人格といった部分が判決に大いに左右する。

このテイラーのような非情な犯行は誰が見ても同情が酌量の余地はなく、その為、陪審員がいては不利な判決になると考えその権利を放棄したに過ぎない。

結局は反省どころか何とも死刑を回避しようと目論むただの異常者に過ぎない。