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劉 煥榮 (リィゥ・ファンロン 台湾)
【 1957 ~ 1993 】



劉煥榮は、1957年8月18日、台湾・台中市北屯区眷村 (軍事共同体) 「陸光八村」で生まれた。

劉は末っ子で家は非常に貧しかった。

その為、劉はまだ子供だったにも拘わらず、市場でフルーツを売らされ生活の足しにしていた。

そんな劉は成長すると、同級生を何の理由もなくいじめた。

そして、高校の時には「北屯圓環」や「小梅花」といったギャングに参加した。

その後、劉は『竹聯』というギャングに請われ参加し、ギャングのボス董桂森の手下となった。

劉は苛烈で冷淡であり、ギャングの中で1番の殺し屋であった。


1980年代、董の命令の下、劉は次々とライバルを葬り去っていく。

犯罪集団『桃園大樹林』の楊柏峰 (ヤン・バイフォン) 及び林隆騰 (リン・ロントン) 、ギャング『大湖』のボス廖龍輝 (リィウ・ロンフェイ) を射殺する。

この殺害は台湾全土に衝撃を与え、劉は台湾における『十大槍撃要犯 (10大射殺犯) 』の1人に数えられた (その10人の中でも1番といわれる) 。

警察は劉の逮捕令状を発行するが、その後、劉は仲間とフィリピンへ赴き、そこでギャング『牛埔』の齊惠生 (チー・フゥイシォン) ・齊瑞生 (チー・ルイシォン) 兄弟、台湾人の陳正晶 (チェン・ヂォンジン、陳南光 (チェン・ナングァン) 兄弟ら一家7人を殺害した。

しかし、他2人の少女が助かり保護された為、劉らは日本へ逃げた。

日本へ逃げ込んだ劉だったが、麻薬の密輸により劉やギャングメンバーは逮捕された。


1986年3月、劉らは台湾に送還され裁判が行われる事になったが、当初、逮捕された董を含む他のメンバーはギャングとして有名であった為、劉は主要な容疑者と思われていなかった。

だが、各事件の裁判を行っていくと、劉の犯行の残忍性や犯行時の重大性が判明し、いくつかの終身刑が言い渡された。

終身刑を言い渡された劉だったが、裁判は続いた。


1991年1月、中華民国高等裁判所が劉に死刑判決を言い渡した。

死刑判決を受けた劉は裁判官に感謝を述べ頭を下げた。

これまで死刑判決を受けた者や死刑囚の態度とは明らかに違う劉の様子に、裁判所の職員たちは驚きを隠せなかった。

刑務所で劉は絵画を学び、39枚の絵を描いたが絵の才能があり、チャリティーとして展示され売られた。

また、劉は若者を救いたいと本を書き、自身が所持していた鉱山を売って孤児院に寄付した。

更に、刑務所の中で匿名で募金キャンペーンを始め、その集まったお金を貧しい人々に寄付した。

劉はフィリピンでの陳一家殺害を非常に後悔しており、殺害は間違いだったと述べ、事件解決の為に協力を惜しまなかった。


1993年3月5日、7年間に及ぶ裁判の末、中華民国最高裁判所は、最終的に劉に死刑を言い渡し確定した。

しかし、この劉への死刑判決に対して世間から反対の声が上がった。

劉の死刑反対派の代表や弁護士は、劉の犯行は快楽や欲望で行われたものではなく、あくまで指示の下、忠実に従っただけであり、しかも殺されたほとんどの人がギャングや黒社会組織のメンバーであり、罪のない人間ではなかったと主張した。

また、劉は死刑判決を素直に受け入れてる事から更生の可能性が十分あり、その機会を与えるべきだと述べた。

劉への死刑判決には死刑廃止を唱える弁護士や政治家等20人以上の著名人らが参加した。

そして、死刑が執行される事になった場合、当時の総統李登輝による恩赦を望んだ。


だが、法務大臣が劉の5人殺害の残虐性を指摘し、同年3月22日、劉の死刑執行にサインした。


翌日の23日、銃殺による死刑が執行された。

享年35歳。

執行前、劉は

「中華民国万歳!」

と叫んだ。

処刑前、劉と拘置所で面会した記者は、劉が反省し、国や社会に申し訳ないと述べていたと話した。

劉は常に落ち着いており、処刑場に入る前に記者団に向かって

「ありがとう」

と述べた。

処刑場に入った後も冗談を話し笑い、最後にビールを飲み、看守にタバコを求め吸った。

看守が
「一部の人間が君を英雄だと言っている」
と話すと、劉は

「私は英雄なんかではない。本当の英雄は『健康幼稚園火燒大型遊覧車事件 (1992年5月15日に発生した大規模な観光バス事故。23人の幼稚園児が死亡し、当時は台湾史上最悪の事故であった) 』の林靖娟先生です (林は園児を救う為に死亡した) 」

と答えた。

劉は臓器提供に合意していた為、処刑後、腎臓や角膜等が患者に提供された。

後に劉の刑務所での態度や様子が全国の高校の教科書に記載される事となった。

その為、現在劉は台湾で最も有名で人気の高い犯罪者の1人である。


最後に担当検察官に最後の言葉を求められた際の劉の発言で終わりたい思います。

「私を賢明に成長させようとしてくれた刑務所の教育に感謝しています



《殺人数》
12人

《犯行期間》
1980年代



∽ 総評 ∽

『神經劉』または『冷面殺手 (冷酷な殺人者) 』等と呼ばれ、ライバルギャングを次々と殺害した劉。

また、劉は台湾の『十大槍撃要犯』の1人に数えられている。

劉は自身の所属するギャングに忠実で、指示の通りに動き殺人を行った。

劉と行動を共にしたギャングによると、仲間を売ったりする人間を嫌い、許さなかったという。

劉は裁判の様子や刑務所での行動が広く認知され、それは教科書に載るほどであった。

その為、劉は台湾で最も人気の高い犯罪者の1人となっている。

確かに劉の刑務所での行動はこれまでの犯罪者とは明らかに異なる。

これまで紹介してきた犯罪者は、反省してても口だけで、行動が全く伴っていなかった。

反省や謝罪に関しては本心かどうかは本人にしかわからないが、劉は口で謝るだけでなく、少なくとも寄付や募金を行っている。

陳一家殺害に関しては後悔の念を述べているが、一家7人の内、犯罪とは関係のない人がいたのだろう (奥さんや子供など) 。

だが、おそらく命令の為、本人的にはやむを得なくやったのだと思われる。

弁護士が犯行は指示であり、自身の欲望の為に行われたわけではなく、また、相手もギャングで犯罪者な為、酌量を求めたが、個人的には死刑は当然だと思う。

ただ、せっかくなのでより多くのギャングたちを劉によって始末させる事が出来ればこれ以上の効率的な事はないと思う。