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ウィリアム・カリー (アメリカ)
【 1943 ~      】



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アーネスト・メディナ (アメリカ)
【 1936 ~ 2018 】



ウィリアム・ロウズ・カリーは、1943年6月8日、アメリカ・フロリダ州マイアミで生まれた。

カリーの父親は第二次世界大戦に従軍したアメリカ海軍の軍人であり、髪がやや赤みを帯びていた事から『Rusty (錆付き) 』とあだ名された。

1963年、マイアミの高校を卒業後、パームビーチ短期大学に入学するが、成績は悪かった為、翌年には退学した。

その後、ボーイや皿洗い、セールスマン等様々な職を転々とし、定職に就く事はなかった。

1966年、徴兵の通知が来るが、マイアミに戻る途中に車が故障してしまい、その為、同年7月26日、ニューメキシコ州アルバカーキの陸軍に入隊した。

その後、カリーはワシントン州の駐屯地で訓練を受け、ジョージア州で基本的な戦闘訓練を行った。

また、カリーはアメリカ陸軍の士官候補生学校に入学し、1967年9月7日、士官学校を卒業後、歩兵少尉となった。


アーネスト・ルー・メディナは、1936年8月27日、ニューメキシコ州スプリンガーで生まれた。

下士官時代は「タフで腕利きの兵隊」と呼ばれ、その後、カリーと同じ陸軍士官候補生学校に入学し、200人中第4位という優秀な成績で卒業する。

カリーはベトナムへの派遣に備えて訓練を開始し、ベトナム到着後、カリーの第11歩兵旅団は第23アメリカ歩兵師団と合流した。


1968年3月16日、カリー中尉率いる第一小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県ソンミ村ミライ集落を襲撃し、無抵抗の住民を次々と殺害する。

犠牲者は男性149人、女性182人 (妊婦を含む) 、子供173人 (乳幼児を含む) の合計504人で、無抵抗にも拘わらず虐殺された。

村民は507人で、奇跡的に助かったのは3人だけだった。

また、殺害された成人の内、60人が高齢者で、89人が中年だった。

しかも、殺害するだけでは飽きたらず、247棟の住居や畑が燃やされ、数千頭の家畜も殺された。

軍上層部は現場に居合わせたアメリカ軍兵士により報告を受けていたが、アメリカは世論が反戦運動へ導かれる事を懸念し、事件を隠蔽した。

その為、当初この虐殺は「ゲリラ部隊との戦い」と虚偽の発表がなされた。

しかし、ジャーナリストが雑誌で真相を報じた事により発覚、大虐殺が明らかとなる。


1969年9月5日、カリーは104人のベトナム人に対する計画的殺人と6つの容疑で起訴された。

そもそもカリーは小隊長としての適性に欠けていたとされ、常識がなくコンパスも読めなかった。

また、カリーが小隊長を務めていた部隊の中隊長であったメディナら関与しているとされた26人も起訴された。


1970年11月17日、カリーの裁判が始まり、故意に非武装のベトナム人を殺害するよう命令したかどうかが論点となった。

カリーの部下であるポール・メドロは、事件当日、ミライ集落を監視していると、カリーが近づき全ての住民を撃つよう命令してきたと述べた。

メドロが戸惑っていると、カリーは少し下がって部下たちと共に住民に発砲し、メドロも参加したと述べた。

カリー側は住民の死はヘリコプターからの空爆によるものだと主張した。

しかし、それは目撃者たちによって否定された。

次にカリーは発砲は直属の上司メディナによる命令であったと主張する。

カリーの弁護士は、前日にメディナが部隊を村へと進軍させ、全てのベトコンを殺せと命じたと主張した。

だが、メディナはそのような命令をしていないと否定した。

カリー側は「全てを殺せ」と命令されたと述べると、メディナはそれはあくまで「全ての敵を殺せ」という意味だったと主張し、

「私は『敵を殲滅せよ』と命令を受けた。それはその日の私の仕事であった。私は彼らが男なのか女なのか子供なのか考えなかった。彼らは全て敵であった。私は命令されたから行動したのだ」

と述べた。

ただ、メディナは部下に対して

「ソンミ村の住民にベトコン及びそのシンパが紛れ込んでいるかもしれない」

と伝え、ソンミ村における虐殺に関する情報の統制を行っていた。

また、メディナの中隊は住居を焼き払い、家畜を殺し、井戸を埋めたり虐殺するといった事が暗黙の了解で行われていた。

しかも、メディナ自身も少なくとも3人を射殺していた。

だが、メディナは軍法会議で殺害の命令や自身の殺人についても否認した。

メディナの弁護士も、部下が自らの意思で虐殺を行ったのであり、メディナの命令によるものではないと主張した。

ただし、側溝に隠れていた女性殺害は認め、メディナは女性が手榴弾を持っていたから撃ったと述べた。


実際にメディナがカリーに命令を下したのかどうかは不明であるが、1971年3月29日、79時間の審議の末、カリーには終身刑が言い渡された。


結局、メディナは同年8月に不起訴となり、他の25人も証拠不十分として不起訴となった。

事件に関与した中で有罪判決を受けたのはカリーだけだった。

だが、無罪判決後、メディナは軍を除隊した。


ただ、唯一有罪判決が下されたカリーも、その後に懲役10年に減刑され、3年後の1974年3月に特赦となり釈放された。

この事に、アメリカ国内のみならず世界各国から非難が起こった。


2005年頃、カリーは離婚し、2007年にイギリスのタブロイド紙のインタビューに答えようとするが、記者がカリーの要求した2万5000ドル (約270万円) の小切手を持って来なかった為、カリーは帰った (しかもインタビュー時間はわずか1時間) 。


2009年8月19日、オハイオ州コロンバスでスピーチを行ったカリーは、ソンミ村の虐殺について謝罪し、

「私はソンミの虐殺について後悔しなかった日はありません。死んだベトナム人やその家族、私の部下や兵士とその家族についての後悔です。本当に後悔している。何故、私は命令を与えた上官 (メディナ) に逆らわなかったのか。ただ、私は一介の中尉であり、だからあの愚か者達の命令には逆らえなかったのだ」

と話した。


メディナは除隊後、ウィスコンシン州マリネットで暮らし、2018年5月8日、81歳で死去している。



《虐殺数》
504人

《犯行期間》
1968年3月16日



∽ 総評 ∽

戦争中の混沌とする中、無抵抗の村民500人以上を虐殺したカリーらアメリカ兵。

戦争という極限状態では人間の理性や常識などまともに通じる事はなく、このような行為に及ぶ事は悲しいがよくある事である。

同じベトナム戦争では韓国におけるベトナム人の虐殺や強姦も行われた (後日掲載) 。

ただ、いくら有事といえど、何の抵抗もない人間を殺す理由とは一体何なのだろうか?

正直、ただただ人を殺したいという殺人鬼と何ら思考が変わらないと思える。

相変わらずの自国の軍人に甘々なアメリカ司法には呆れてものも言えない (ただ甘いのは他の国もそうであるが) 。

500人殺害して1人がたった3年刑務所に入っただけである。

戦争であれば容易に人殺しが可能でしかも罪に問われないというのは恐ろしい限りである。