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ジョン・バラバン (オーストラリア)
【 1924 ~ 1953 】



ジョン・バラバンは、1924年、ルーマニアで生まれた。


生まれながらに孤独であったバラバンは、母国を逃げるように去ると、1941年10月、フランスの首都パリに到着する。

この時、バラバンは17歳であった。


1948年2月、パリでハンガリー人の女性レーワ・クワスを殺害する。


1951年7月11日、オーストラリアへ移住し、様々な仕事に就いた。


1952年9月、アデレードでテルマ・ジョイス・カッドという女性と結婚する。

バラバンはカッドの母スーザンとカッドの連れ子フィリップと小さなアパートに一緒に住んだ。


同年12月5日、南オーストラリア州トーレンスビルで、ユーゴスラビアの移民ゾラ・クシッチ (29歳♀) が殺害される。

クシッチの遺体は近くの寄宿舎の居住者によって発見され、ベッドの近くに凶器に使われた血まみれのポケットナイフが見つかった。

また、頭部はほぼ切断されており、遺体もズタズタに切り裂かれていた。

警察は犠牲者が殺害される前にホテルやワインバーで犯人と出会ったと考え、トーレンスビルのホテルやバーを徹底的に調査した。

すると、タクシーの運転手が犯行の日、クシッチと一緒にいた男性を乗せたと報告する。

その男性というのがバラバンであった。 

警察は早速バラバンを取り調べ、5時間に及ぶ尋問を行った。

バラバンは事件の夜について警察に嘘をついたが、証拠がなかった為、釈放された。


1953年2月、バラバンはアデレードに戻った。

元々バラバンは結婚生活に不満を抱いており、事あるごとにカッドと口論となっていた。


同年4月11日、バラバンは飲みに出掛け、泥酔すると公共トイレで女性を襲い鉄の棒で殴り掛かると、その後、数人に襲い掛かった。

被害者は負傷し入院するが、幸い致命傷には至らなかった。

バラバンはそのまま家に戻りハンマーを手にすると、まず寝室で寝ていた妻カッド (30歳) に襲い掛かり殴り殺した。

そして、別の寝室で寝ていたフィリップ (6歳) とスーザン (66歳) を何度も殴って致命傷を負わせた。

その後、バルコニーで寝ていたウェイトレスのバーナ・マニー (24歳♀) を襲った。

マニーは反撃し、窓から飛び降り身を投げ出した。

マニーは舗装に頭を打ち意識を失うが、悲鳴や叫び声を聞いた隣人が警察に通報した。

駆けつけた警察にバラバンは逮捕され、フィリップとスーザンは病院に搬送されるが、間もなく死亡した。


同年5月5日、バラバンはカッドら家族殺害で起訴される。

バラバンは殺人を認め、

「妻は売春婦のように振る舞い、彼らは非常に私に反抗的だった」

と動機を述べた。

また、バラバンはクワスとクシッチ殺害を認め、裁判で死刑が言い渡された。

バラバンは精神異常を理由に上訴するが、棄却された。


1953年8月26日、絞首刑による死刑が執行された。


最後に家族について聞かれた際のバラバンの返答で終わりたいと思います。

「死ぬに値する」



《殺人数》
5人 (他被害者多数)

《犯行期間》
1948年2月~1953年4月11日



∽ 総評 ∽

『The Romanian Maniac (ルーマニアの狂人) 』と呼ばれ、バラバンは家族や女性を殺害した。

元々ルーマニアで生まれ、母国を逃げるように去りフランス・パリに移住した。

詳しく知らないが、おそらく当時のルーマニアの情勢等が要因であろう。

また、バラバンがオーストラリアに移住した理由もわからないが、犯行のほとんどはそのオーストラリアで行われた。

バラバンは証拠がないとして釈放されてしまい、その後、女性が襲われ最後に家族が殺害された。

証拠がないのに長時間拘束するというのは不当だと言われればそうだが、殺害された女性と一緒にタクシーに乗っていたのである。

正直、怪しさしかなく、実際殺害していたのだ。

もう少し、慎重に対応していれば、その後の惨劇は防ぐ事が出来ただろう。

バラバンは死刑判決が下された正確な日はわからないが、少なくとも5月に起訴されて執行されたのが8月なので、2、3ヶ月で確定して執行された事になる。

現在、オーストラリアは死刑を廃止しているが、この頃のような容赦ない執行を行っていた時代に戻って欲しいものである。