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アナ・ンジンガ女王 (アンゴラ)
【 1583? ~ 1663 】



アナ・ンジンガ女王は、1583年頃、アフリカの小国ンドンゴの王ンゴラ・キラ・サンバと第2夫人ゲンゲラ・カコンベの子として生まれた。

ンジンガというのはキンブンド語で「絡み付く」という意味で、ンジンガは臍の緒が首に絡み付いた状態で生まれた。

アンゴラでは臍の緒が絡まった状態で生まれた子供は誇り高い人間に育つという言い伝えがあった。

ンジンガには兄ムバンディ、2人の姉妹キフォンジとムカンブがいた。

ンジンガを占った占い師は、
「この子はいずれ女王になるであろう」
と母親に告げた。

父親ンゴラはそんなンジンガを愛し、傍に置いて離さず、戦争にさえ連れて行った。

実際、ンジンガは勇敢で剛胆、しかも容姿端麗であり、父親の期待以上に優秀に育った。

ンゴラは無能な長男ムバンディを無視し、ンジンガを溺愛した。

アンゴラは1575年からポルトガルによって「ポルトガル領アンゴラ」となり植民地となっていた (「アンゴラ」という国名はポルトガル人がンゴラを国の名前と間違えて「アンゴラ」と読んだのが起源とされている) 。


1610年代、兄ムバンディが跡を継ぐと、跡継ぎ争いに敗れたンジンガは国を離れた。

ムバンディはポルトガルに対して反乱を起こし、首都を攻撃するが敗北する。

そして、この敗戦で多くの貴族や一族が処刑されてしまう。


1617年、ムバンディはンドンゴ独立の為に本意ではなかったが、ンジンガを呼び戻した。

だが、自分よりも優秀なンジンガに対する嫉妬心と警戒心はムバンディは人一倍強かった。

まず、ムバンディはンジンガの息子を殺し、ンジンガの反応を伺うが、ンジンガは何も言わず耐えた。

ある時、ポルトガルとの戦いで銃で武装するポルトガル軍に槍隊での突撃を指示したムバンディに対し、ンジンガは「無謀で無駄死にだ」と反発すると、それに対して腹を立てたムバンディは熱した鉄の棒をンジンガの膣内に突っ込んだ。

熱さと激痛により地獄のような苦痛を味わうが、それでもンジンガは耐えた (子供が産めない体になったといわれる) 。


1622年、ンジンガは兄ムバンディにポルトガルとの和平会議の特使として派遣される。

ポルトガル側はンジンガに椅子も用意せず、床に座るよう促す。

そんな屈辱に対してンジンガは動揺する事なく、側にいた召し使いを跪かせ、その背中に座って交渉を続けた。

このンジンガの態度に圧倒されたポルトガル高官は、独立を認める条約を締結する。


1622年、ンジンガはカトリックに改宗し、ポルトガル高官の妻スーザに「Ana」という洗礼名を受ける。


1624年、兄ムバンディが自殺する (このムバンディの死は、ムバンディに自殺する理由がない事からンジンガによる毒殺とされているが証拠はない) 。

ムバンディの死後、その息子が王となり、ンジンガは摂政として支える事になる。


1626年、ムバンディの息子からンドンゴの支配権限を譲渡され、ンジンガは女王となった。

ンジンガは自身を「Queen of Andongn (ンドンゴの女王) 」と呼び、姉妹のキフォンジとムカンブを側近とした。

その後、ンジンガは自国の富強に励み、長年のポルトガルとの戦いに突入する。

攻防は一進一退であり、優勢となった時期もあったが、1657年、協力国のオランダがアフリカを去り、毎年の戦争で国も疲弊していた事からポルトガルと平和条約を結ぶが、以前のような不利で一方的なものではなく対等な条約であった。


1663年12月17日、ンジンガは推定80歳の大往生を迎えた。

ンジンガ亡き後、結局アンゴラは再びポルトガルの完全な植民地となった。

現在、アンゴラではンジンガはヨーロッパの植民地支配に抵抗した英雄と讃えられている。

アンゴラの首都ルアンダの大通りはンジンガにちなんで命名され、2002年には独立27周年を記念して銅像が建てられた。

アンゴラの女性はンジンガに憧れ、銅像の側で結婚式を行うのが通例となっている。

だが、そんなンジンガだが、一方で苛烈な性格に準ずる強烈なサディストで食人嗜好という猟奇的な性向の持ち主とされている。

ある日、視察に訪れた村で1人の村人の態度に腹を立てると、村人600人を宮廷に連行して牢に閉じ込めた。

そして、庭に巨大な石臼を作らせると、裸にした600人の村人を一列に並ばせ、1人ずつその石臼に落として挽き殺した。

当時、若い人間の血や肉は若返りに効果的だとされていた為、ンジンガは擂り潰した人肉を食べ血は啜った。

ンジンガは特に子供の柔らかい肉を好み、たった2日間で130人もの子供を殺して食べたとされている。

ある時、投獄されていた逞しい男性20人に恩赦を賭けて殺し合いをさせ、勝ち残った男性を自ら鞭打って殺害した。

ンジンガは男性が血を流して苦しむ姿に異常な興奮を覚え、気に入った男性2人に殺し合いをさせ、生き残った男性と行為に及ぶのだが、行為の最中、ンジンガは男性に噛みつき爪を立てて肉を引き裂いたりと、それらによって苦痛を浮かべる男性を見て快感に至っていた。

行為が終わった後、男性は用済みとなり処刑された。

また、ンジンガは美しい男性を愛し、彼らを女装させると「コンキュバイン (性の奴隷) 」と呼び、後宮に囲った。

コンキュバインは5、60人いたとされ、侍女たちと同じ部屋で寝させられた。

その際、男女で間違いが起きた事が発覚すると、どちらも即座に処刑されたという。



《殺人数》
数千人?

《在位期間》
1626年~1663年



∽ 総評 ∽

アンゴラの女王として現在では英雄とされているンジンガ。

当時のアフリカはヨーロッパの列強諸国により植民地化されており、アンゴラもその例に漏れなかった。

そんな中、ンジンガはその持ち前の才能で独立を果たし、しかも、ポルトガルを国から追い出そうとさえした女傑であった。

その卓越した政治力に軍事力、先見の明と外交的な洞察力を併せ持ち、剛胆にして豪傑、容姿端麗でお気に入りの豹柄の戦袍を身に纏い60を過ぎてもなお、戦場に立ち続けたその勇姿はアンゴラにおける最も偉大な人物と呼ばれるに相応しい存在であった。

だが、そんなンジンガは別の側面として残虐な逸話が数多く後世に残されている。

ただ、歴史的にみてもンジンガのような権力を手中にした女性の残酷で凄惨な行いというのはよくある事である。

「史上最悪の連続殺人鬼」と名高いハンガリーのバートリ・エルジェーベトも王国の貴族であったし、中国でも前漢の高祖の妻呂后、中国史上唯一の女帝、唐の武則天 (則天武后) 等も残虐な行為が目立った。

その為、このンジンガの行いも決して珍しいという事はないが、残虐振りはあまりに信じ難く耳を塞ぎたくなるような内容であった。

ただ、個人的には結構大袈裟に伝わっている事は多いと思う。

真実と思われる事もあると思うが、2日で130人の子供を食べられるわけないし、当時のアフリカの技術で600人もの人間を殺す石臼を作れるとも思えない。

当時のアフリカが人物の武勇伝を中国のように事細かに記して伝えたとも思えない。

おそらくポルトガル側からすれば、ンジンガの英雄視など容認出来るはずもなく、悪く風評を流したり書いた事が現代に伝わっているだけかもしれない。


* 追伸 *

今回、要約したつもりですが長々と人物の経歴を掲載してしまい、歴史上の人物の紹介みたいになってしまいました。

当初、ンジンガが行ったとされる残酷な行為だけを掲載しようかとも思ったのですが、それでは彼女がただの猟奇殺人者で終わってしまうと思い、経歴の掲載に至りました。

長々と申し訳ございませんでした。