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ラルフ・ブリッジズ (イタリア)
【 1856 ~ 1946 】



ラルフ・ライオネル・ブリッジズは、1856年、イギリス・グロスターシャー州チェルトナムで生まれた。

父親をチャールズ・エドワード、母親をエレノア (旧姓ニー・ロウ) と言い、ブリッジズは成人になると英国国教会の執事となった。


1910年から第一次世界大戦が勃発する1914年の間、ブリッジズはアメリカ・ニューヨーク州で奉仕したのだが、地方自治体に子供の虐待が報告された。

戦争中、ブリッジズはイギリスに戻り軍に入るが、頭部に重大な傷害がある事が報告された。


1922年、妻フローレンス・キャロライン・ジャービスとイタリアの首都ローマに移り、ブリッジズは「イングランド・ホーリー・トリニティ教会」の牧師となり、1928年まで滞在した。


1927年4月24日、ブリッジズは休暇でカプリ島に行き、ホテルでイギリス人の女の子に嫌がらせをした後、逮捕された。

ブリッジズは指紋採取を頑なに拒絶した。

フローレンスがナポリのイギリス領事館に出向き、ブリッジズの釈放を求めた。


同年8月、ブリッジズは釈放されるが、警察はブリッジズの追跡を行わなかった為、見失ってしまう。


1928年4月13日、ブリッジズがポルトガルからアフリカへ向かう船に乗り、その後、カナダへ向かう為、ジェノバの港に停泊していた。

その時、ブリッジズのローマの家で働くメイドがブリッジズの多数の女児への誘拐と強姦について証言する。

この証言により本格的な捜査が始まり、ブリッジズの小屋からメモが見つかる。

それには犠牲者の名前、時間、場所等、事細かに書かれていた。

サン・ピエトロ広場で誘拐されたロジーナ・ペリ (♀) を初め、他の犠牲者の姓が暗号化されていた。

また、犠牲者の首を絞めたと思われるハンカチが見つかった。

犠牲者の1人、アマンダ・レオナルディ (♀) の遺体の傍には英語で書かれた禁欲的な本の焼けたページが見つかり、その本はブリッジズが注文したものだった。

その事をブリッジズに追及すると、

「はい、モーブレー公共図書館 (イギリス) で購入したものです」

と答えた。

逮捕されたブリッジズは、『The Monster of Rome (ローマの怪物) 』と呼ばれるようになる。

だが、このブリッジズ逮捕はイギリス領事館から抗議が起こる (当時のイギリスとイタリアの関係性が影響している) 。

そして、イギリス国防総省からの圧力により、ブリッジズはわずか3ヶ月で解放され、その後、カナダ・トロントへ渡った。


1929年10月23日、ブリッジズはローマの裁判所で完全に無罪とされた。


1946年4月18日、ブリッジズはアメリカ・フロリダ州デイトナビーチで死去する。

ブリッジズの事件は当時、正式には無罪であったが、1923年から1928年の間、ローマで少女5人を誘拐、強姦して殺害した事は確実視されている (別の男性が冤罪て逮捕されている) 。

また、その後の調査でローマに滞在する以前、ドイツやスイス、南アフリカ・ヨハネスブルグ等で殺人を行っていた事がわかり、ブリッジズによる犠牲者は全部で9人とされている。



《殺人数》
9人? (もっと多い可能性大)

《犯行期間》
1922年?~1928年



∽ 総評 ∽

『The Monster of Rome』と呼ばれ、9人の少女を強姦して殺害したとされるブリッジズ。

古い時代という事もあり、実際のブリッジズの犯行については不明な点が多い。

確実な証拠はなく、また、結局裁判で裁かれていない為、冤罪という可能性も0ではない。

ただ、現在ではブリッジズの犯行は確実とされている。

犯行を行ったとされる1922年だが、すでにブリッジズは60も半ばに差し掛かっており、その年齢でも尚衰える事のない欲求は驚嘆の一語に尽きる。

また、犯行を行ったらとされる時期はブリッジズは牧師をしており、まさに性職者 (聖職者) と呼べる恐ろしさである。

ブリッジズは少女ばかりを好んだ為、ペドフィリアと思われるが、そういった趣味嗜好の持ち主が、60半ばまで何もやっていなかったとは思えない。

実際1910年~14年の間に子供を虐待しており、もっと以前から犯行を行っている可能性は非常に高い。

もしそうなると、犠牲者はかなりの数に及ぶかもしれない。

ブリッジズは何度か逮捕されているが、その度にイギリス政府からの圧力により解放される事となった。

当時のイタリアとの関係性について詳しくわからないが、そんな事の為に釈放され被害者が増えるというのはとても納得がいかない。