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エレーヌ・ジェガド (フランス)
【 1803 ~ 1852 】



エレーヌ・ジェガドは、1803年、フランス・ブルターニュのプルイネックで生まれた。

家は農家で7歳の時に母親が死亡した。

その為、ジェガドは使用人であった2人の叔母に育てられる。

24歳の時、叔母とセグリアンに引っ越し、そこで牧師の料理人として働き始める。

ある時、穀物のスープを飲んだ牧師に中毒症状が現れる。

後に、ジェガドがスープに大麻を入れていた事がわかった。

その後、ジェガドはゲルンヌのフランソワ・リ・ドラゴ神父に雇われた。


1833年6月28日から同年10月3日の間に神父、神父の高齢の両親、ジェガドの妹アンなど、7人が突然死する。

ジェガドはその死を悲しみ、敬虔な行動をとった為、疑われる事はなかった。

原因がわからず、結局1832年に発生したコレラが原因とされた。

ジェガドはビュブリーに移動し、そこで、叔母を含む3人が3ヶ月の間に死亡した。

次にジェガドはロクミネに移動し、裁縫の仕事に就いた。

そこで、マリー=ジャンヌ・ルブシェとその夫、娘が死亡し、息子は病気となったが助かった。

息子だけが助かったのは、唯一ジェガドを受け入れなかったからだった事が後に判明した。

また、ロクミネで未亡人のローリーがジェガドに住まいを提供した。

ローリーはジェガドが用意したスープを飲んで死亡した。


1835年5月、ジェガドはマダム・トッサンに雇われる。

すると、そこで4人が死亡した。

この時点でジェガドによる犠牲者は17人に及んでいた。


同年、ジェガドはオーレーの修道院に使用人として雇われる。

ここでジェガドは破壊行為等のいつかの問題行動を起こし、解雇された。

ジェガドはオーレーで料理人として働き、その後、ポンティビー、ロリアン、ポート=ルイスで働いた。

その間、多くの人達が病気となり死亡した。


1841年5月、プロムールでメアリー・ブレーガー (♀) が死亡する。

ブレーガーを含むこれまで死亡した犠牲者は、ほとんどがヒ素中毒による症状を示していた。

その後、ジェガドは1849年まで雇われて働いていたが、この間、不審な死を遂げる者はいなかった。

ただ、何人かの雇い主からは盗難の被害報告を受けていた (ジェガドは盗難癖があったとされる) 。


1849年にジェガドはレンヌに移動し、翌年にはレンヌ大学の法律教授テオフィル・ビダールの家に使用人の1人として雇われる。

すると、別の使用人ローズ・テシエ (♀) が病気となり、ジェガドが世話をしている時に死亡する。


1851年、別の使用人ロザリー・サラザン (♀) がテシエと同じ症状の病気となり死亡する。

2人の医師がサラザンがテシエと同じ症状の末、死亡した事を知り、親類を説得して剖検を試みる。


そして、ヒ素中毒により死亡した事が判明し、一緒にいたジェガドを追及し、同年7月1日に逮捕した。

その後、調査により1833年から1841年の間、ジェガドによる23人の殺害容疑が掛かる。

だが、すでに10年以上が経過しており起訴期限を超えていた為、徹底的な調査は行われず、科学的証拠もなかった。

ジェガドによる正確な死者数は不明だが、およそ36人は殺害したとされている。


同年12月6日、裁判が始まり、時効や証拠不十分を除き、確実な3件の殺人と11件の窃盗で起訴された。

裁判でジェガドは証拠があるにも関わらず犯行を否認し、また、ヒ素が何なのかも知らないと述べた。

ジェガドの精神状態について問われ、弁護士は7歳の時に母親が亡くなった後、情緒不安定となったと述べた。

ジェガドにはギロチンによる死刑が言い渡された。


1852年2月26日、ギロチンによる死刑が執行された。



《殺人数》
36人?

《犯行期間》
1833年6月28日~1841年5月



∽ 総評 ∽

36人を殺害したとされるジェガド。

ジェガドはヒ素を盛り殺害した典型的な毒殺魔だが、基本的に女性による殺害方法としては最もポピュラーで合理的な方法といえる。

ただ、動機がいまいちわからない。

金品を奪った形跡はなく、また、雇い主やその家族を殺害している事から怨恨でもなだろう。

という事はただの快楽殺人であり、毒殺魔らしい非情さが伺える。

ジェガドは生まれた時はナポレオンの時代であり、物心ついた頃はナポレオンの時代が終わり、フランスは混沌とした状況であった。

その影響はあったとは思わないが、もしかしたらそんな混沌とした時代であった為、これほどの犯行を続けられたのかもしれない。