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デイビッド・スパンバウアー (アメリカ)
【 1941 ~ 2002 】



デイビッド・フランク・スパンバウアーは、1941年1月、アメリカ・ウィスコンシン州ウィネベーゴ郡オシュコシュで生まれた。

父親をフランク、母親をエブリンといい、両親はブルーカラー (生産労働者) のドイツ人であった。

家はカトリックで、スパンバウアーはジュディとメアリーの2人の妹がいる3人兄妹の長男であった。

フランクは1人息子のスパンバウアーに厳しく接した為、親子の関係は良くなかった。

スパンバウアーが14歳の時、フランクは心臓の病気で死亡した。


1958年1月、オシュコシュ高校を中退し、海軍に入隊した。

だが、スパンバウアーは軍での生活で精神に異常が現れ、軍医が母親に精神医学的ケアが必要だと手紙を送った。

しかし、問題についてそれ以上言及される事はなく、母親も特に対処はしなかった。


1959年11月、軍を不名誉除隊となり、ウィスコンシン州へ戻った。

そして、再びオシュコシュ高校に通い始める。


1960年1月3日、スパンバウアーはアップルトンの家に侵入し、住人を銃で脅してダイヤモンドの指輪2つ、酒の瓶、いくらかの現金、狩猟用ナイフを奪った。


翌日の4日、オシュコシュから10マイル (約16km) ほど北にあるニーナで、再び強盗に押し入った。


同年1月11日、仮面を被ったスパンバウアーが家に侵入し、現金を盗む。

家には勉強中の13歳の少女と母親がいたのだが、母親はすでに寝ていた。

スパンバウアーは銃を少女に突き付けると、

「私はお前を強姦するつもりだ」

と述べた。

少女が
「それはどういう意味なの?」
と問い掛けると、スパンバウアーは2度少女を殴った。

すると、少女が悲鳴を上げた為、スパンバウアーはその場から逃走した。


翌日の12日夜、キャロル・グランディ (16歳♀) が従姉妹のベビーシッターをしていた。 

グランディがピアノを弾くと、その姿をスパンバウアーが窓の外から見ていた。

一目気に入ったスパンバウアーは家に押し入り、銃でグランディを脅すと少量の現金をポケットに入れ、寝室に連れ込んだ。

そして、ナイフでグランディの服を切り裂き、強姦した。

すると、グランディの叔父が家に戻って来る。

スパンバウアーは叔父の顔に向けて発砲し、逃走した。

その後、ウィスコンシン州南東部を漂流し、ミルウォーキー周辺で強盗未遂を犯した。


同年2月16日、スパンバウアーは逮捕された。

裁判官はスパンバウアーを「性的逸脱」と非難し、19歳という年齢だったスパンバウアーに懲役70年を言い渡した。

刑務所に収監されたスパンバウアーだったが、母親のエブリンが仮釈放の公聴会で、息子の釈放を促す書簡を提出した。

エブリンは息子は変質者ではないと主張し、息子が強盗を犯すのは家の貧しさであり、強姦は被害者女性が悪いと書いた。


1972年5月、スパンバウアーは仮釈放となり、マディソンエリアテクニカルカレッジに入学し、成績は平均的であった。


普通の生活を送るかと思われたが、同年8月11日、ヒッチハイクしていたウェイトレス (17歳♀) をナイフで脅し、誘拐した。

そして、公園に連れて行き、強姦した。

少女が泣き始めると、スパンバウアーも涙を流し、少女の手を縛ってその場を離れた。

少女は警察に犯人の男の前腕に悪魔の刺青が彫られていたと話し、警察はすぐに犯人をスパンバウアーだと判断する。


同年8月16日、スパンバウアーは逮捕されるが、性行為は合意の上で行われたと主張した。

スパンバウアーは誘拐と強姦で起訴され、仮釈放中であった為、検察は懲役50年を求刑した。

だが、全ての事実を考慮した後、リチャード・ボードウェル裁判官は、スパンバウアーの強姦は過去の強姦より遥かに軽度であると考え、
「以前の非常に危険な性犯罪者から、少し危険だが改善の余地はある」
として懲役12年を追加したに留まった。

スパンバウアーを社会の脅威と考えていた検事補佐官は、この判決に憤慨し、
「私が今まで接触し不快感を抱いた凶悪で暴力的な犯罪者のトップ10に入る」
とスパンバウアーの事を語った。


1991年1月29日、スパンバウアーは仮釈放された (実はもっと早くに仮釈放される可能性があったが拒否され続けていた) 。

刑務所で稼いだ8000ドル (約80万円) を所持し、結婚していた妹のジュディと一緒に生活を始めた。

そして、スパンバウアーは地元の瓶詰め工場で働き始め、仕事が落ち着くと、オシュコシュ西方にアパートを借り、1人で生活を始めた。


同年12月24日、心臓発作を起こし、一時、心臓が止まり重体となる。

医師の必死の治療の末、スパンバウアーは一命を取り留めるが、以降、心臓が弱まりその事で悩まされる事となる。


1992年8月19日、ウィスコンシン州ウィネコンネにあるフォックス・リバー・モールで働いていたローラ・デピース (20歳♀) は、仕事を終え、約束していた友人に会いに向かった。

だが、デピースは友人のもとを訪れる事はなく、そのまま行方不明となってしまう。

デピースの友人がアパートを訪ねると、駐車場に鍵の掛かったままの車を発見する。


同年8月23日、ロネル・アイヒシュタット (10歳♀) が自転車で出掛けた後、行方不明となる。

アイヒシュタットの自転車がウィスコンシン州フォンデュラク郡で見つかる。

そして、同年9月30日、アイヒシュタットの遺体がタワーヒル州立公園近くのトウモロコシ畑で見つかった。

アイヒシュタットは強姦されており、死因は射殺であった。


1994年7月4日、スパンバウアーは自転車に乗っていたミリアム・スタリハ (24歳♀) に車で近づいた。

車から降りて銃で脅し、連れ去ろうとするが、他の車が通った為、スパンバウアーは車に戻って逃走した。

事件はFBIが参加し、容疑者の特徴をスケッチし公表した。


同年7月9日、スパンバウアーはアップルトンの家に侵入する。

家には誰もいないと思っていたが、寝室にトルーディ・イェシュケ (21歳♀) がおり、驚いたスパンバウアーはイェシュケの胸を1発撃った。

スパンバウアーは逃走し、イェシュケは病院に搬送されるが間もなく死亡した。

スパンバウアーは証拠になると考え、銃をメノミニー公園に捨てた。


同年9月5日、ウィスコンシン州ウェイオーウェガで、コーラ・ジョーンズ (12歳♀) が自転車で祖母の家に向かった。

それを見たスパンバウアーは銃で脅して車に拉致し、75マイル (約120km) 北に走り、ラングレード郡へ着いた。

そして、ジョーンズを強姦し、刺した後、首を絞めて殺害した。

遺体は道端の溝に投げ捨てた。

警察とFBIが捜査を始め、ジョーンズの遺体は5日後の10日に見つかった。


同年10月20日、スパンバウアーは15歳の少女を強姦し、同年11月5日には31歳の女性を強姦した。


同年11月14日、ジェラルド・アーガルは、自宅に戻ると家の中に見知らぬ男性がいた。

男性は逃げるがアーガルは追い掛け、捕まえる事に成功した。

警察が到着し、男性は逮捕されるが、その男はスパンバウアーであった。

スパンバウアーは強盗での逮捕であったが、拘留中、車を調べると、10月20日と11月5日に起きた強姦事件で使用された道具が見つかる。


同年11月18日、警察が尋問を続けると、スパンバウアーはアイヒシュタットとジョーンズ、イェシュケ殺害を認めた。

デピース殺害についてはスパンバウアーは否定したが、証拠がいくつか見つかった。

だが、デピースの遺体が発見されていない事から起訴される事はなかった。

また、スパンバウアーはウィスコンシン州における数多くの強盗及び強姦について告白した。


同年12月8日、スパンバウアーは起訴された全ての罪で有罪となり、同年12月20日、3つの終身刑と懲役403年が言い渡された。

判決を言い渡された当日の法廷は、アイヒシュタット、ジョーンズ、イェシュケの家族、他強姦被害に遭った被害者家族でいっぱいであった。


2002年7月29日、スパンバウアーは刑務所で死亡した。

享年61歳。

スパンバウアーは長年肝臓病と心臓病を患っており、それらが原因とされた。



《殺人数》
4人 (他犯罪多数)

《犯行期間》
1992年8月19日~1994年9月5日



∽ 総評 ∽

主に少女を襲い、4人を殺害したスパンバウアー。

スパンバウアーがこれ程異常になった理由がいまいちわからない。

父親は厳しかったのが原因かもしれないが、スパンバウアーが14歳の時に死亡している。

また、心臓病の後遺症が残り、いつ死ぬかわからない不安が犯罪に拍車を掛けた可能性もあるかもしれない。

スパンバウアーは仮釈放中に犯罪を犯し、懲役50年が追加されるはずであったが、裁判官が過去より良くなっているし改善の余地があるとして懲役12年を下した。

検事補佐官の憤慨を見るまでもなく、判決を決定するトップの人間がよくそんな事を恥ずかしくもなく言えたものだと思う。

1960年に16歳の少女を強姦し、また、その他にも数多くの犯罪を行っていたそんな息子を「変質者ではない」と庇い仮釈放を求めた母親。

しかも、強盗を犯したのは家が貧しいから、強姦したのは相手の少女が悪いと他人のせいにする始末であった。

人のせいにする神経も凄いが、では貧乏が強盗をした原因ならそもそも貧乏な家庭にしたのは自分の力量のなさであろう。

ここまでくるとむしろ感心してしまうレベルであり、まさに「この親にしてこの子あり」である。