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グンドルフ・ケーラー (ドイツ)
【 1958 ~ 1980 】



グンドルフ・ウィルフィード・ケーラーは、1980年9月26日、ドイツ (西ドイツ) ・シュヴェニンゲンで生まれた。

ケーラーはドナウエッシンゲンで育った。

ケーラー14歳の時、ドイツ国民党 (NPD) のイベントに参加した。

そして、この頃からナチス時代のバッジや本、絵などを集めるようになった。

また、ベッドの上にはアドルフ・ヒトラーの絵を飾っていた。

ケーラーはスチール製のヘルメットに兵士のブーツを手に入れ、射撃をスポーツクラブで練習した。


1975年、ケーラーは地下室で化学物質の実験を行い、爆発を起こし顔に傷を負った。

その後、ドナウエッシンゲンの学校を卒業し、間もなく連邦軍の兵士として2年間期限付きの兵士として勤務した。

ケーラーは武器を扱える事に憧れていたが欲求が満たされる事はなかった。


1976年12月4日、「Wehrsportgruppe」の中で最も過激とされるカール=ハインツ・ホフマンを代表とする「Wehrsportgruppe Hoffmann」というドイツで指定された右翼団体による反デモ隊の乱闘を目撃する。


1977年、ホフマンがドナウエッシンゲンにやって来ると、ケーラーはホフマンと会った。


1978年7月、ケーラーはドイツ連邦軍に失望し、同年11月、聴覚障害を理由に除隊した。


1979年4月1日、ケーラーはエバーハルト=カールス大学で地質学を学んだのだが、その前の3月から大学内で行われた右翼過激派の学生イベントに散発的に参加した。


1980年9月26日午後10時19分、ミュンヘンで行われる世界最大級のビールの祭典「オクトーバーフェスト」の会場正面入り口直ぐ側にあるゴミ箱に仕掛けられた爆弾が爆発する。

爆発で周囲30m以上が壊滅的被害となったが、丁度その時、祭典が終了し帰宅につく人々が溢れていた。

この爆発による犠牲者は5人の少年を含む13人であり、重傷者は214人に及んだ。

13人の犠牲者もそうだが、重傷者の多くが手や足など体の一部を失くしており、約450以上の人間の部位が散乱するという現場はまさに地獄絵図であった。

当時、この事件はドイツ連邦始まって以来最悪のテロであった。

ドイツ当局はすぐに捜査を始め、当初は犯行グループによるテロなのか、個人によるものなのか判断がつかなった。

だが、すぐに現場でケーラーのIDカードを見つけ、その後、ケーラーの事を調べると、犯人はケーラーの単独犯だと判断する (ただし現在も複数犯による犯行だとする意見も多い) 。

そして、死亡した13人の内の1人にケーラーも含まれており、ケーラーも爆発に巻き込まれ死んでいる事が判明した。

ケーラーの動機について右翼過激派との関わりが取り沙汰される事が多々みられるが、実際は不明であった。


2008年、新たな情報や証言が見つかった為、調査が再開される事となった。



《殺人数》
12人 (他負傷者214人)

《犯行期間》
1980年9月26日



∽ 総評 ∽

ビールの祭典で賑わう会場に爆弾を仕掛け、12人を殺害し自らも爆死したケーラー。

近年、爆破テロは世界各国で起こっており珍しい事もないが、当時としてはドイツ史上最悪となるほど珍しいものであった。

ケーラーは一応単独犯とされているが、爆弾魔といえばセオドア・カジンスキーやエリック・ルドルフ、マーク・コンディットやフランツ・フックスなどかいる。

また、最悪の犠牲者を出した事件といえばティモシー・マクベイの『オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件』が有名であろう。

ただ、ある程度の期間で爆破を繰り返すのが真の爆弾魔といえ、1回で終わらせるケーラーやマクベイは爆弾魔というよりスプリー・キラーと呼べる。

爆弾による被害は、この事件同様その威力から甚大な被害を及ぼす事が多い。

その為、最も非情な犯行といっても過言ではない。

最後、ケーラーは自身の爆弾に巻き込まれて死亡したが、初めから死ぬつもりだったのか逃げ遅れたのかはわからない。

ただ、ドイツ (西ドイツ) はこの時すでに死刑を廃止している為、死んでくれたのは良かったと思う。