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サッダーム・フセイン (イラク)
【 1937 ~ 2006 】



就任からわずか5日後、フセインは革命指導評議会を開き、上級のエリート層を出席させた。

そして、秘密警察から得た情報を挙げ、新政権転覆計画を発見したと主張する。

名前を挙げられた者はホールから出され、秘密警察に逮捕させると処刑した。

フセインはエリート層を警戒し、自身が大統領であると認めさせる為に行った行為であった。

これらの様子は映像に撮られ、イラク全土に流された。

また、公的資金を使って支配層を満足させ手懐け、政治顧問や護衛隊を含めた側近ほぼ全員に高級車を与えた。

ただ、フセインは官僚だけではなく、国民にも恩恵を与えるべく石油の富を利用し新たな制度作りに資金を投入した。

更に、資金を投入するだけではなく税額も下げ、国民に医療や大学教育を無料で提供した。

しかも、男尊女卑が著しい中東で男女平等の実現にまで取り組んだ。

これにより、大学に入る女性が急増し、就職する機会が劇的に増加した。

これらは女性からの支持が大事だと考えての行動であった。

フセインは国民の富と発展に自身の独裁政権が必要だと信じ込ませた。


しかし、1980年、隣国のイランで革命により王朝が崩壊し、イラン・イスラム共和国が成立する。

そして、急進派の指導者ホメイニが台頭すると、国境に緊張が走る。

ホメイニは圧倒的な宗教哲学を持ち、神権政治を信じるホメイニをフセインは警戒した。

ホメイニはイラクに対しても革命を促し、シーア派の国民によるフセイン政権打倒を呼び掛けた。


フセインは自身が潰される前にホメイニを討伐しようと考え、1980年9月22日、フセイン率いるイラク軍がイランに侵攻した (「イラン・イラク戦争」) 。

フセインの目論見では数日で勝利すると思っていた。

しかし、イラン軍の激しい抵抗に遭い、侵攻は行き詰まり消耗戦に発展してしまう。

イランとの大規模な戦争が長引いた結果、フセインの求心力は一気に低下した。


1988年3月、イラクの少数民族クルド人がフセイン政権に対して反乱を起こした。

反乱軍はイランとの国境沿いの町ハラブジャを占拠する。


同年3月16日、フセインは反逆したクルド人の粛清を命じ、空軍によりハラブジャ攻撃を始めた。

しかも、ただの爆撃だけではなく、毒ガス攻撃も行った。

大勢のハラブジャ住民がシアン化水素中毒で死亡し、ハラブジャは一面地獄絵図と化した。

この爆撃で約5000人が死亡し、1万人が重傷を負った。

反乱を鎮圧したフセインは、化学兵器の威力をイランに見せつける事に成功し、国連が指導する停戦交渉にホメイニは応じた。

両国共に領土を得る事もなく8年に及ぶ戦争は終結した。

イラク軍は8年間で50万人が死亡し、イラクのほぼ全ての家庭で家族の誰かが死亡するという凄惨な結果となった。

また、両国の犠牲者は100万人に及び、これは第一次世界大戦なみの犠牲者数であった。

戦争が終わって安心したのも束の間、フセインは政府が破産寸前である事に気づく。

これは長年に渡る戦争の結果であった。

フセインはこの危機を回避すべく、今度は隣国のクウェート併合を目論み侵攻を計画する。

クウェートの経済力と石油がイラク立て直しに有効だと考えたからだった (侵攻前にアメリカに打診している) 。


1990年8月2日、フセインの軍隊はクウェートに侵攻する (「イラク・クウェート戦争」後に「湾岸戦争」へと発展する) 。

西側諸国はこのイラクの侵攻に強い危機感を覚え (サウジアラビアのような産油国が巻き込まれれば世界の石油供給の約50%が危うくなる) 、アメリカのブッシュ大統領は
「あらゆる国も隣国を侵攻してはならない」
として、国連の全面的な支持の下、ペルシャ湾に陸海空の大軍隊を投入した。


1991年1月16日、アメリカ率いる多国籍軍が攻撃を開始する。

圧倒的戦力の前にイラク軍は成す術なく、防戦一方となり (独裁体制としては前例のない極めて異例な出来事) 、毎日場所を変えて国内を逃げ回るしかなかった。

そして、数週間で多国籍軍はイラク軍を圧倒、フセインは絶体絶命のピンチを迎えるが、クウェートへの侵攻を止めると多国籍軍はそれぞれ自国に撤退していった。

フセイン政権は多国籍軍により制圧され終わったわけではなかったが、すでにフセインの命は風前の灯となっていた。


③に続く