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フランシスコ・フランコ (スペイン)
【 1892 ~ 1975 



フランシスコ・フランコ・バアモンデは、1892年12月4日、スペイン・ガリシア地方フェロルで生まれた。

フランコの家系は代々海軍に従事した名家であった。

そんなフランコは、子供の頃からスペインの名高い艦隊で海に出て活躍した祖先のようになりたいと、海軍に入る事を夢見ていた。

だが、その夢は叶わなかった。


1898年、フランコ6歳の時、キューバの独立を巡り「米西戦争」が勃発する。

キューバは元々スペインの植民地であったが、相次ぐ独立運動によってすでに約半分が独立軍によって支配されていた。

スペインはキューバ島での地位と権力を回復しようとするが、この戦争でスペイン軍はアメリカ軍に大敗を喫する。

そして、戦争が終結すると、スペインはキューバを始めプエルトリコ等の植民地をほぼ全て失った。

新生国家アメリカに負けるというのは、大航海時代から「無敵艦隊」を擁して世界に君臨してきたスペインにとってこれ以上ない屈辱的な事であった。

国家が揺らぐ程の大敗北を喫したスペイン帝国は没落し、フランコの家庭も荒廃していく。

それと同時に父親であるニコラスは酒と女性に溺れていった。

ニコラスはフランコを嫌い、他の2人の兄弟 (フランコは全部で5人兄弟) ばかりに愛情をかけた。

そんな夫に母親は失望し、カトリックで厳格であった母親はフランコに愛情を注いだ。

フランコは保守的で愛国的な母親に強く影響を受けた。

その影響により、フランコは若くして国を守る為、将校になろうと決意する。

フランコは海軍を志望していたが、海軍学校は閉鎖しており (「米西戦争」で艦隊が壊滅状態にあった為) 、海軍よりも名声の劣る陸軍士官学校への入学を余儀なくされる。


1907年、フランコは将校になる為、トレドにある士官学校に入学した。

フランコは年齢の割に背が低く、声が高かった為、他の生徒からいじめを受けた。


1910年、士官学校を卒業し、失墜したスペイン軍の名誉回復を志した。

その為に昇進しなければと考えたフランコであったが、将校から昇進する機会は限られており、どうすればいいか考える。

そこで、目を付けたのが、この時、スペインにとって唯一の植民地であったモロッコ (スペインとは地中海を挟んだ対岸にある) であった。

フランコはアフリカがもっとも昇進の近道であると結論付けた。


1912年、モロッコでスペインに対する暴動が起こると、フランコはアフリカ部隊に配属された。

この部隊は現地のモロッコ人で構成された部隊で、"死を誓った部隊" といわれ勇猛で知られた部隊であった。

特にフランコの部隊はモロッコ人の鼻や耳を削ぎ落とした頭部を持って笑顔で記念撮影する等、残虐な部隊として悪名を馳せた。

結局、1915年までの3年間で、各部隊に配属された将校42人の内、生存者はわずか7人で、その1人がフランコであった。

フランコは部隊と共に戦う中で民間人への拷問や大量虐殺が許されており、容赦なく行った。

ある日、兵士が昼食を拒み将校の顔に投げつけた。

すると、フランコは即座に兵士を射殺させ、他の兵士に死体のそばを行進しろと命じた。

そして「恐怖こそ敵味方関係なく相手を効率的かつ効果的に支配する事が出来る」と後の独裁に通じる戦術を学んだ。


1916年6月、フランコの部隊は敵陣に正面攻撃を仕掛け、133人の内、56人が死亡した。

フランコ自身も腹部に被弾し死にかけるが、奇跡の回復をみせ、その後、少佐に昇進した。

モロッコ人はフランコの回復を奇跡だと称え、神の祝福 "バラカ" がフランコにあると信じ信奉する。

フランコ自身も奇跡的な回復により自分には使命があると確信し、スペインを救う天命にあると考える。

暴動鎮圧に成功したフランコは一躍有名となり、祖国に帰国すると右派の全国紙はフランコを「軍団のエース」と呼んだ。

そして、准将に昇進し、33歳にして将軍となった (この当時ヨーロッパで最年少であった) 。


1931年4月、君主制への支持が失われ、暴動の危険が迫る中、国王アルフォンソ13世が選挙の実施に同意した。

そして、支持を得る事が出来なかったアルフォンソ13世は退位を余儀なくされた。

共和国の樹立を求め、数週間後に総選挙が実施された。

左派は出版や報道の自由、通常選挙の実施を保障し、成人男女全てに選挙権を与えると主張する。

だが、フランコはカトリックの下、資産と神聖な婚姻が守られるというのが考え方であり、左派とは反目しあった。


1933年11月、連携した保守派が勝利を収めた事でスペインは右派に傾いていく。

そして、フランコは大将に昇進した。


1934年5月、社会主義者やアナーキストが炭鉱の町アストゥリアスで蜂起する。

政府はフランコに暴動の鎮圧を依頼し、社会主義者を憎み左派を無神論者と決めつけていたフランコは、暴動を抑止するべく警告の意味を込めて数名を残酷に殺害した。

フランコはアフリカ部隊をアストゥリアスに派遣し、3000人以上のスペイン人を銃殺した。

そして、3万人の捕虜はスペイン国外の植民地へ追放し、刑に服する事となった。

スペイン国内の都市で初めて戦場となり、鎮圧に成功したフランコはこれをチャンスだと考える。

左派の各党は連合し「人民戦線」を結成する。


1936年2月16日、再び行われた総選挙で右派の政権は敗北し、左派の人民戦線が勝利する。

人民戦線は軍事クーデターを警戒し、右派の将軍たちを左遷した。

フランコはスペインの数少ない植民地カナリア諸島 (アフリカ大陸の西に位置し、スペイン国土から約2000km離れていた) に送られた。

左遷された将軍らはクーデターを計画し、フランコにも参加を要請した。

数日間悩んだ後、フランコは要請に応じた。


同年7月18日、フランコは民間人を装い飛行機に乗ると、アフリカへ旅立った。

この頃、スペインは分裂し、人民戦線は与党になっていた。

平等な権利を認める国家を望むフランコら右派の将軍たちは、伝統的なカトリック国家を求めた。


翌日の19日、モロッコに到着したフランコはクーデターを開始する。

アフリカ部隊はフランコに忠誠を誓い、共にスペインへ向かった。

だが、3万もの兵士がジブラルタルを渡るのは不可能であり、飛行機で渡るしかなかった。

そこで、フランコは新兵器と戦術を実地で試せる機会を条件にアドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニに協力を求め、800回のフライトでドイツとイタリアの空軍機が1万5000人の兵士を空輸した。

フランコは首都マドリードを目指し北上する。

アフリカ部隊は南部の民間人 (主に農民) を次々と攻撃し、虐殺した。

フランコはあえて残忍な攻撃を奨励していた。

捕らえた左派の人々を集め、一気に銃殺した。

フランコは報道を利用し、自身がクーデターのリーダーだと世界に知らしめた。


同年9月、フランコは反乱軍の総司令官に選ばれ、マドリードに向かう途中、トレドに向かった。

そして、カトリックを象徴するトレドを救うべく、要塞を包囲していた共和国軍を撃破し、トレドを奪回した。

その様子は世界に大々的に報道され、フランコはトレドを救った英雄と評された。


同年10月、反乱軍はスペイン西部を制圧し、マドリード攻略に臨んだ。

しかし、共和国軍の激しい抵抗に遭う。

そこで、フランコは共和国を支持する者を徹底的に排除する。

フランコは町という町で人民を捕らえると、全員を射殺した。


1939年2月、抵抗を続けていた人民戦線軍が崩壊する。


同年3月27日、フランコ軍はついにマドリードを制圧する。

これによりスペイン内戦は終結を迎え (実に50万人が犠牲となった) 、フランコはスペインのトップとなった。


②に続く