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ズジスワフ・マルフィツキ (ポーランド)
【 1927 ~ 1977 】



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ヤン・マルフィツキ (ポーランド)
【 1929 ~ 1977 】



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ヘンリック・マルフィツキ (ポーランド)
【 1930 ~ 1998 】



1964年11月7日、ポーランド、ドンブルフカ・マワで、アンナ・マイセック (♀) が殺害される。


1965年1月20日、チェラチでエヴァ・パカン (♀) が襲われる。

だが、パカンは襲われるも無傷で事なきを得た。


同年3月17日、ベンジンでリディア・ノワッカ (♀) が殺害される。


同年5月14日、ベンジンでイリーナ・シマンスカ (♀) が襲われる。

シマンスカは負傷したものの、一命を取り留めた。


同年7月22日、ソスノビエツでヤドヴィガ・ジグマント (♀) が殺害される。


同年7月26日、ベンジンでエレオノーラ・ゴンショロフスカ (♀) が襲われるが、ゴンショロフスカは助かった。


同年8月4日、ベンジンでソフィア・ヴィシニエフスカ (♀) が襲われるが助かった。


同年8月15日、チェラチでマリア・ブラシュチック (♀) が殺害される。


同年8月25日、ベンジンでジェノヴェファ・ルベック (♀) が殺害される。


同年10月25日、ベンジンでテレサ・トスザ (♀) が殺害される。


同年10月28日、スワフクフでアリチャ・ダビル (♀) が殺害される。


同年12月12日、チェラチでイレーナ・シュレック (♀) が殺害される。


1966年2月19日、グロトクフでスタニスラヴァ・サミュエル (♀) が襲われるが助かった。


同年5月11日、ベンジンでジェノヴェファ・ビジャック (♀) が殺害される。


同年6月15日、ソスノビエツでマリア・ゴムルカ (♀) が殺害される。


同日、ベンジンでジュリアンナ・コジエルスカ (♀) が襲われるが、一命を取り留めた。


同年10月11日、ベンジンでヨランタ・ギエレク (♀) が殺害される。


1967年6月15日、ベンジンでソフィア・カウカ (♀) が殺害される。


同年10月3日、ヴォイコヴィツェでソフィア・ガルバチ (♀) で殺害される。


1968年10月3日、ソスノビエツでヤドヴィガ・ソムシーク (♀) が殺害される。


1970年3月4日、シェミャノヴィツェ・シロンスキェで、ヤドヴィガ・クチャンカ (♀) が殺害される。

クチャンカが殺害された頃には連続殺人はポーランド全土を恐怖に陥れており、パニックとなっていた。

女性たちは夕方になると外出しなくなり、夫や兄弟が護衛した。

一連の事件は『The Zaglebia Wampir (盆地からの吸血鬼) 』と呼ばれ、21人が襲われ14人が殺害されていた。

加害者の精液は見つからず、強姦されていないとされたが、何人かは殺害後に死姦されていた事がわかった。

また、犠牲者の何人かは恥丘の一部を切り取られていた。

21人の内、実に20人が体の左側を攻撃され、最後の被害者だけが右側を攻撃されており、2人は殺人に使用された武器が異なっていた。

1965年7月、連続殺人犯逮捕の為の特別チームが結成され、1966年11月、特別チームの名称は最初の犠牲者の名前である「アンナ」に変更された。

1968年には犯人逮捕の為の賞金が設定され、その甲斐もあり市民から多くの情報が寄せられた。

多くの証言を下に犯人の容姿や精神的特性などの人間像が作られ、それに基づき267人の容疑者が浮かび上がった。

そして、犯人はポーランド復活の国立記念日に2人殺し、また、犠牲者には書記官や犠牲者の家族に民兵司令官がいた為、捜査官は政治的、反国家的動機によるものだと推測する。

最後にクチャンカが殺害された後、精神障害のあるソスノビエツの職人ピオトル・オルゾウイを尋問する。

すると、オルゾウイは自分が『The Zaglebia Wampir』だと認めた。

だが、いくら告白したとしても十分な証拠がなかった為、釈放された。


同年3月11日、警察に手紙が届き、それには

『彼女 (クチャンカ) が最後の犠牲者だ。これ以上殺す事はない。あなたは私を捕まえる事は決してないでしょう』

と書かれていた (同年3月14日から15日夜の間に、オルゾウイは妻と子供を殺害して自殺した) 。


1972年1月6日、ドンブローヴァ・グルニチャで、妻と子供への虐待によりズジスワフ・マルフィツキ (1927年10月18日生) が逮捕される。

当初はただの虐待による逮捕であったが、ズジスワフが『The Zaglebia Wampir』である事が判明する。


そして、クチャンカ殺害の際に協力したとして、同年5月、ズジスワフの弟ヤンとヘンリックも逮捕される。

他にも同年7月妹のハリーナ、同年11月に息子のズジスワフ・フラックも逮捕された。

専門家によって用意されたプロファイルの性格特性に、ズジスワフは56個も当てはまった。

ズジスワフは犯行は全て同じで、犠牲者を追い掛けると、背後から重い鈍器で頭部を殴った。

そして、地面に倒れた所を更に何度も殴って殺害した。

ズジスワフは目標を定めており、それはポーランドの1000年の歴史 (通説では966年にポーランドが誕生したとされている) にちなみ、1000人殺す事だったと述べた。

その後、ズジスワフらの調査は2年以上続き、事件のファイルは166冊以上に及ぶという膨大なものとなった。


1974年9月18日、裁判が始まり、1975年7月28日、有罪判決が下され死刑が言い渡された。

ヤンも死刑が言い渡され、ヘンリックは懲役25年が言い渡された。


1977年4月26日 (または29日) 、ズジスワフとヤンの絞首刑による死刑が執行された。


1992年、ヘンリックは釈放され、その後、1998年に死亡している。



《殺人数》
14人 (他7人殺人未遂)

《犯行期間》
1964年11月7日~1970年3月4日



∽ 総評 ∽

『The Zaglebia Wampir』と呼ばれ、21人の女性を襲い14人を殺害したズジスワフ兄弟。

兄弟で犯行に及ぶというのは、これまで何組も紹介してきた。

だが、妹や息子も逮捕されており、家族ぐるみの犯行ともいえる。

ただ、ヤンやヘンリックは最後の殺人のみの参加であり、犯行のほとんどをズジスワフ1人で行っていた。

基本的に犯行は強姦目的ではなく、また、物盗りの犯行でもない為、純粋な殺人を目的として行われた事になる。

ただ、何人かは恥丘の一部を切り取られており、食べる為に持ち去ったのかその部分は何らかの執着があったのかよくわからない。

上記殺害された数を数えると15人になるが、多くの資料にはズジスワフによる犠牲者は14人とされている。

誰か1人間違えているのか、本当は15人なのか詳しくわからないが、罪の重さは変わらない。