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クリスチャン・ドルニエ (フランス)
【 1958 ~      】



クリスチャン・ドルニエは、1958年7月15日、フランス・ボーム=レ=ダムで生まれた。

父をジョルジュ、母をジャンヌといい、ドルニエには兄セルジュと妹のコリンがいた。


ドルニエは1981年頃に軍隊に入り、1年間奉仕した。

除隊したドルニエであったが、入隊前と人格が明らかに変化していた。

ドルニエは多くの本を読むような控え目で物静かな性格であった。

兄のセルジュによると、ドルニエには友達はおらず、話をするような相手は誰もいなかったという。


1988年、父ジョルジュは仕事を引退し、農場をドルニエに引き渡した。

ドルニエは農場を引き継ぐ為に、農業コースに入学し、1ヶ月勉強しなければならなかった。

だが、ドルニエは入学してわずか1週間で戻った。

戻ったドルニエは明らかに精神に異常をきたしており、頭を剃り上げ、喫煙し、暴力的になった。

また、親から譲られた農作業も放棄した。

その為、ジョルジュははドルニエに農場を譲渡する事を止めた。


1989年、ドルニエは父と隣人のルネ・バランドに発砲した。

また、突如女性に石を持って怒鳴り散らした事もあった。

これらの事件について村の評議会で討議されたが、それまでドルニエは法に触れるような事はなかったという事で何の対処の必要もないと決定された。

だが、家族はドルニエに精神科への診察が必要だと忠告した。

ジョルジュはドルニエの銃を隠した。

ドルニエは精神科医を訪れ精神安定剤を定期的に処方した。

だが、ドルニエは処方薬を飲まなかった。

そこで両親はドルニエを精神病院に入れる事を考えたが、その事を医師がドルニエに話すと、猛烈に怒り出した為、最終的に母親も入院に反対した。


同年7月に入るとドルニエは神経衰弱し、その為、同年7月8日に行われたコリンの結婚式にも参加しなかった。


同年7月12日、ドルニエは家族との昼食を拒み、義理の弟ダニエル・メイナードの車を自分の車の進行の邪魔にならない場所に移動させると、食器棚の後ろに隠していた2連式散弾銃を持ち出した。

午後2時30分、牛の害虫駆除業者マルセル・ラシーヌ (45歳♂) の車が到着すると、ドルニエは兄のセルジュが到着したと思い、ラシーヌを射殺する。

それからドルニエは家族に向かって発砲を始め、妹のコリン (26歳) を射殺した。

コリン殺害後、父ジョルジュ (63歳) の首を撃って負傷させ、近所にジョルジュを連れて行った。

そして、家に戻る前にジョルジュを撃って射殺した。

この時、母ジャンヌが警察に連絡している最中であり、そんな母親をドルニエは撃った (後に病院で死亡した) 。

コリンの夫メイナードは、窓から逃走して無傷で助かった。

家族への銃撃を一通り終えたドルニエは、より多くの弾薬を詰め込み、外に走り出した。

そして、周辺の目につく人々を無作為に撃ち始めた。

最初に標的となったのは、ヨハン (10歳♂) とジョニー (14歳♂) のロベス=マッソン兄弟であり、ヨハンは自転車に乗っていた所を撃たれた。

その後、マリー (81歳♀) とスタニスラス (79歳♂) のペリアール姉弟を射殺し、続いてルイ・キュエノ (67歳♂) とルイ・リャール (50歳♂) を射殺する。

そして、ジュリエット・ペリアール (♀) 、ジェニーン・キュエノ (♀) 、14歳の少女、レネ・バラン (300mの距離から頭と脚を撃たれた) 、マリー・テレーズ (♀) 等6人が撃たれ負傷した。

市長の姪ポリーヌ・フェーヴル=ピエレ (5歳) を射殺した後、銃をリロードしていた所を市長の息子ジョエルがドルニエの銃に飛び付き発砲した。

銃撃はドルニエの首に命中し、その後、逃走した。

負傷したドルニエは車でボーム=レ=ダムに向かい、途中、ルイ・ジラルド (47歳♂) を射殺し、40人の警察官に追われている間、交差点で車に乗る教師ゲオルゲス・ペルニン (40歳♂) とマリー=アリス・チャンプロイ (♀) を射殺し、車を衝突させた。

この車の事故に巻き込まれたピエール・ブーフ (♂) も死亡した。

ドルニエは最終的にヴェルヌで逮捕された。

逮捕される前、ドルニエは警察官との銃撃戦の時に腹部を撃たれ負傷していた。

結局、ドルニエの銃撃による犠牲者は全部で14人で、負傷者は8人であった (ただし、10月に銃撃の負傷者の1人が死亡しており15人とする説もある) 。

肝心の動機だが、本人が語らないため不明であった。

ただ、父親が農場を渡さない事への怒りだとされた。

当時のフランス首相ミシェル・ロカールは、事件の後に哀悼の意を示した。


同年7月15日、ドルニエは14件の殺人と8件の殺人未遂で起訴された。


同年11月、2人の精神科医がドルニエを診察し、統合失調症に苦しんでいると診断した。


1991年4月18日、ドルニエはサルグミーヌの精神病院で治療を受ける事となった。

このドルニエによる14人という犠牲者数は、1995年9月23日 (から24日にかけて) にエリック・ボレルが15人殺害するまで瞬間大量殺人としてはフランス史上最悪であった。



《殺人数》
14人 (15人とする説もある)

《犯行期間》
1989年7月12日



∽ 総評 ∽

家族殺害後に銃を乱射し、14人を殺害したドルニエ。

ドルニエは事件当時、瞬間大量殺人としてはフランスの歴史上、最悪の犠牲者数であった。

ドルニエは典型的なスプリー・キラーと呼べるが、アメリカでみられる無差別に行われるのとは少し趣が異なる。

ドルニエは無差別な銃撃の前に的確に家族を殺害しており、その後に凶行に出ている。

これは同じフランスの前述したボレルの犯行と非常に酷似している。

ドルニエは精神を次第に蝕んでいっており、途中、何度も治療するチャンスはあった。

だが、諸々の事情で結局治療される事はなく、惨事に至ってしまった。

先日掲載したアメリカのリチャード・ボームハンマーの時もそうであったが、せめて精神に異常をきたしているとわかっているのなら治療して欲しかったと思う。