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エリック・ボレル (フランス)
【 1978 ~ 1995 



エリック・ボレルは、1978年12月11日、フランス・ポーで生まれた。

母親をマリー=ジェーン・パレンティ、父親をジャック・ボレルといい、ジャックは軍人であった。

しかし、軍人であったジャックは家を空ける事が多く、ボレルが生まれて間もなく夫婦は離婚した。

その後、ボレルはジャックの母親の元に送られ、ボレルはそこで過ごした。


そして、ボレルが5歳の時に母マリー=ジェーンがイブ・ビシャーと再婚し、ソリエス=ポンで一緒に暮らす事となった。

だが、ボレルはそんな母親を嫌悪するようになる。

マリー=ジェーンとビシャーは熱狂的カトリックであり、ボレルを「罪な子」と考え厳しく接した。

マリー=ジェーンはボレルを虐待し、ビシャーもまたボレルを殴った。


ボレルは8歳で家を出るが、腕を骨折してしまいその痛みに苦しんだ。

だが、それでも家には戻らず隠れていた。

学校でのボレルは物静かで大人しかったが、自由時間の間は裏庭で鶏を外に出して遊んでいた。

また、軍への興味や憧れが強くなっていった。

そんなボレルは武器を好み、エアガンで雀を撃っていた。


ボレルはトゥーロンにある専門学校に通い、そこで電気機械技術を学んだ。 

ボレルの成績は良く、規律を守る物静かな学生であった。


だが、1994年から行動に変化がみられ、授業をさぼる事も多くなった。


1995年9月、ボレルはクラスメートの1人に、自殺をほのめかすが、その前に2、3人を殺すと話した。


同年9月23日午後6時頃、ボレルはキッチンで継父ビシャーを22口径の銃で撃つと、頭をハンマーや野球バットで叩き潰して殺害する。

次に同じ方法でテレビを観ていた弟ジーン=イブ・ビシャー (11歳) を殺害。

2人を殺害後、ボレルは血を拭き取り母親が帰って来るのを待った。

母マリー=ジェーンが午後8時30分頃に教会から帰宅すると、一発で射殺する。

母親殺害後、血を拭き取り遺体をシーツで覆った。

その後、ボレルはレインコートに身を包み、ビシャーのライフルと多くの弾薬、お金をポケットとバックに入れると車に乗ってキュエールに向かった。

だが、車をぶつけてしまった為、徒歩で向かう事となり、途中、木の下で野宿した。

日付が替わり24日午前1時頃、週末にたまにしかビシャーを訪ねないビシャーの息子ジーン=ルークが3人の遺体を発見する。

すぐに警察に連絡するが、ジーン=ルークの矛盾した会話により当初、容疑者とされた。

午前7時15分、ボレルは友人のアラン・ギレメット (17歳♂) の家に到着し、ノックするとギレメットの母親がドアを開けた。

この時、ギレメットはまだ寝ており、起こしてくれるよう頼んだ。

ギレメットが起きて来ると、ボレルと庭で話しをした。

だが、2人はやがて口論となり (詳細は不明だがボレルがギレメットに何かを求めギレメットが拒否した) 、ギレメットが去ろうとするとボレルが殴り掛かり撃って射殺した。

その後、ボレルは7時30分以降、ランダムに人間を撃ち始めた。

この時期、地域では狩猟シーズンであった為、ボレルがライフルを持っている事に誰も何の疑問を抱かなかった。

ジネット・ヴィアレット (48歳♀) は開いた窓越しから撃たれて殺害され。

デニース・オットー (77歳♀) はゴミを出している所を射殺され、その時、夫のジーンも撃たれ負傷した。

次にボレルは夫婦で歩いていた妻を撃って負傷させ、その後、開いていた窓越しにロドルフ・インコーバラ (59歳♂) を撃ち (後に病院で死亡した) 、新聞を買っていた店主のマリオ・パガーニ (81歳♂) の腹部と頭を撃って射殺した。

そして「Cafe du Commerce (コマース・カフェ) 」の前でモハメッド・マーラッド (41歳♂) を射殺する。

マリウス・ブードン (59歳♂) とアンドレ・トーレット (62歳♀) がATMでお金を引き出そうとしている所をボレルに射殺され、プードルを散歩していたアンドレ・コレッタ (65歳♀) が射殺された。

最後に殺害されたのがパスカル・モスタチッチ (15歳♂) であった。

午前8時までに警察が現場に到着すると、ボレルは囲まれている事に気付いた。

観念したボレルはヒノキの木の下で自らの頭を撃って自殺した。

ボレルによる犠牲者は家族や友人も含め全部で13人であり、負傷者は4人であった。

犯行時、ボレルはまだ16歳であり、その衝撃はフランス全土を震撼させた。

銃撃を目撃した者によると、ボレルは的確に犠牲者の頭部を撃ち、合計約40発撃った事がわかった。

動機は不明であったが、家族の事を嫌っており、殺害後、自暴自棄になって行われたとされた。

また、ボレルは部屋いっぱいにナチスのバッチやアドルフ・ヒトラーの事が書かれた新聞記事、第二次世界大戦に関する本等が見つかったと報道された。

その為、動機はファシズムのイデオロギーによるものともされたが、これらの情報は虚偽だった事が後にわかった。

更に彼女が妊娠していた、父親が事件前に癌で亡くなっていたという噂も流れたが、それらも事実ではなかった。


同年10月23日、入院していたジェーン・ロジェーロ (68歳♀) が、銃撃の傷がもとで亡くなり、これで犠牲者は14人となった。


1996年3月2日、ピエール・マリリアーノ (68歳♂) が銃撃の傷がもとで死亡し、犠牲者は全部で15人となった。

この15人というのは、1989年7月12日にリュクシオル周辺で銃を乱射し、14人を殺害したクリスチャン・ドルニエの記録を抜き、瞬間大量殺人としてはフランス史上最悪となった (ただし、ドルニエの事件も後に銃撃がもとで亡くなったとされる人物が1人おり、15人とする説もある) 。


最後にボレルの発言で終わりたいと思います。

「家に帰っても家事ばかりやらされる。俺は家族が憎い」



《殺人数》
15人 (他負傷者4人)

《犯行期間》
1995年9月23日~翌日24日



∽ 総評 ∽

家族を殺害後、友人を殺害し、最後は通りで銃を乱射したボレル。

銃乱射事件といえばアメリカのお家芸であるが、他の国でも当然起こっており、これまで何件も紹介してきた。

ただ、アメリカに比べれば非常に件数は少なく、フランスは少ない。

ボレルの犯行は典型的なスプリー・キラーと思われるが、ボレルは外で銃を乱射する前に家族を殺害している。

また、家族を殺害した後にわざわざ友人を訪ねて殺害しており、通常みられるスプリー・キラーの行動とは違い、当初は無差別ではなく相手を選んでいる。

おそらく、ボレルの本来の目的は家族と友人のみであり、その後は死ぬ気だった為「死なば諸共」精神で無差別に撃ったのだろう。

ボレルは継父と弟は撃つだけではなくハンマーや野球のバットで殴り、母親は一発撃っただけであった。

これはおそらく怒りと恨みの差だと思われる。

動機については不明で、本人も死んでしまっているので今後判明する事はない。

単純な家族への怒り恨みだと思われるが、当初、ナチスやヒトラー等が原因ではないかと情報が流れた。

確かにそれらを崇拝する人間はこういった事件を起こし易いが、何でもかんでもそうだと決めつけ情報を流すメディアにも問題があるといえる。