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ノーバート・プルク (ドイツ)
【 1951 ~ 1985 】



ノーバート・ハンス・プルクは、1951年9月15日、ドイツ (当時は西ドイツ) ・シュトゥットガルトで生まれた。


プルクは1982年からミュールハウゼンで警察官として働き始めた。

プルクは宝くじで3万6000ドイツマルク (約230万円) を得た為、バックナングで家族 (妻、息子2人、娘1人) の為に家を建てた。


1984年3月、娘のコルドゥラが脳腫瘍によりわずか3歳で死亡した。

娘が死んで間もなく、プルクは犯行を始める。

プルクが犯行に使ったのは「ワルサーP5」という銃であった。


同年5月3日、プルクはアシャッフェンブルクからの旅行者ジークフリード・フィスター (47歳♂) を殺害する。

フィスターは高速道路の休憩所で休んでいた所をプルクに頭を撃たれた。

遺体はマールバッハで見つかり、車の遺体が発見された所から4マイル (約6km) 離れた所で発見された。


同じ日、プルクはエルプシュテッテンで銀行強盗を行い、ハンマーで窓口を破壊し、お金を奪って逃走した。

警察はすぐに捜査に出るが、初動捜査で失敗し、犯人を逮捕出来なかった。


同年12月21日、ニュルンベルクで駐在員として働いていたユージーン・ウェザー (37歳♂) がグロースボットヴァーでプルクに射殺される。


同年12月28日、プルクは銀行強盗を行った。


1985年7月22日、プルクはシュミートハウゼンの駐車場で、ウィルフィールド・シャイダー (26歳♂) を射殺する。

その後、シュピーゲルベルクで銀行強盗を行うが、シャイダーの車はそこで見つかった。

この頃には犯人は『The Hammer Killer (ハンマー・キラー) 』と呼ばれており、犯人逮捕の為、特別組織が形成され、大規模な捜査が始まった。

これは西ドイツにおいて戦後最大規模となった。

その後、4ヶ月の間に1400人に尋問を行った。


同年9月29日、ルートヴィヒスブルク駅のロッカーで警察の制服を見つける。

その制服はシュトゥットガルトで14年間警察官として勤務しているベテラン、プルクの物だと判明する。

プルクに質問すると、急な家族の葬儀により着替えて制服をロッカーに置いたと話した。

だが、調べると1984年3月に娘が癌で亡くなったものの、最近家族の誰も死んでいない事がわかり、警察はプルクに不審を抱く。


同年10月14日、プルクは病欠を申し出、警察はプルクの調査を始める。


同年10月20日、警察はプルクの自宅へ向かうが、応答がなかった為、逃亡をおそれて家の中に押し入った。

すると、プルクの妻が頭を2度撃たれ浴室で死亡しており、寝室には息子のエイドリアンが死亡していた。


同年10月23日、イタリア・ブリンディジ近くの村で、プルクの車が見つかり、車内にはもう1人の息子ガブリエルの射殺体と、自らを撃って自殺したプルクの死体が発見された。

プルクの死体の傍にあった銃は、これまで犯行に使われた銃である事が判明した。

事件は本人の自殺をもって終わりを迎えたが、その衝撃さに以降、本や小説、テレビ番組など多くのメディアで扱われている。



《殺人数》
6人 (他銀行強盗等犯罪多数)

《犯行期間》
1984年5月3日~1985年10月23日



∽ 総評 ∽

現職の警察官として3人を殺害し、最後は家族全員を殺害した後に自殺したプルク。

プルクは10年以上働いたベテランの警察官で、そんな人間が殺人のみならず銀行強盗を行った。

現役の警察官による犯行といえば、少なくとも8人の女性を凄惨な方法で殺害したジェラルド・シェイファーが有名だが、実は意外に多い。

プルクが何故これほどの犯行に及んだのか幼少時代の詳細がない為、よくわからない。

ただ、娘をわずか3歳で癌で亡くし、その後に犯行に及んでいる事からおそらくそこに何らかの原因があると思われる。

もちろん娘の死がショックだからといってとても許される事ではないが。