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クラウス・ゴスマン (ドイツ)
【 1940 ~      】



クラウス・ゴスマンは、1940年、ドイツ・フランクフルトで生まれた。


1945年2月、戦争で父親がアメリカ軍によって殺害され、その時、ゴスマンはミエンジジェチに住んでいたが、1949年からヘルスブルックで育った。


その後、1951年に引っ越し、入学試験に失敗し、インゴルシュタットの中学校に入学した。


1960年4月22日正午、ニュルンベルクでゴスマンは年配の女性のアパートに侵入する。

女性は助けを求めると、婚約者とオーナーが急いで助けに向かった。

すると、ゴスマンは婚約者とオーナーを撃ち、何も盗らずに逃走した。

女性は警察に犯人の特徴を告げ、ニュルンベルク警察は周辺に厳戒態勢を敷いた。

だが、警察はゴスマンを逮捕する事は出来なかった。

警察は目撃証言から犯人の年齢を推測し、1939年から40年の間に生まれた男性5万336人全てを調べた。

それはドイツの歴史上最も大規模な調査の1つとなった。


1962年7月、ゴスマンはニュルンベルク専門大学で、経済学を勉強し始めたが、中途で止めてしまう。


同年9月10日正午、ゴスマンはオッヘンブルックにある銀行の店長を撃ち、3000ドイツマルク (約20万円) を強奪する。

撃たれた店長は死亡した。


同年11月10日正午、ゴスマンはノイウハウス・アン・デア・ペーグニッツにある銀行を襲い、胸ポケットに入れていた銃を取り出すと退職者を射殺した。


1963年3月29日正午、ゴスマンは銃器店を襲撃し、店の所有者と母親を撃って射殺する。


1964年夏、軍に志願し、同年10月に引っ越した。


その後、コブレンツやミュンヘン等、ドイツ国内の様々な場所で訓練を受けたが、1965年4月、突如、軍を辞めた。

そして、ニュルンベルクやその周辺に偽名で住み始めた。


1965年6月1日正午、ゴスマンはニュルンベルクのデパートで、客の財布を盗もうとした。

その後、逃走したゴスマンを何人かの通行人が追い掛けた。

警察官も現場に到着し、銃撃戦が展開される。

ゴスマンは1人を射殺し、2人に重傷を負わせた後、逮捕された。

逮捕された時、ゴスマンは3つの銃と爆竹を持っていた。

警察は所持していた銃からこれまでの犯行がゴスマンによるものと断定したが、当初、ゴスマンは犯行を否認した。

しかし、銃の1つが2つの事件に使われた物と確定し、銃が盗まれた物とわかった時、ゴスマンはこれまでの罪を認めた。

ゴスマンは犠牲者に対して問われた際、無関心で興味がないと告白した。

ゴスマンは決まって犯行が正午に行われた為、『The Midday Murderer (正午の殺人者) 』と呼ばれたが、何故、正午だったかというと、朝早く起きれなかったからだった。


1967年7月27日、ゴスマンは5件の殺人と3件の強盗で終身刑が言い渡された。

2つの殺人事件に関しては年齢により裁かれなかった。


2010年初め、レーゲンスブルク地方裁判所は、ゴスマンを仮釈放するよう命じた。

だが、ゴスマンは依然、重大な犯罪を犯す可能性があるとして、ニュルンベルク高等裁判所が仮釈放を覆した。


しかし、2012年、連邦裁判所の判決により仮釈放が決定し、2015年2月26日、50年間刑務所に収監されたゴスマンは仮釈放された。

この50年間というのはドイツの歴史上、最も刑務所に収監された囚人であった。


最後に、最後の殺人について語ったゴスマンの発言で終わりたいと思います。

「私は捕まる事を恐れていたが、それでも自衛で撃たなければならなかった」



《殺人数》
7人 (他2人負傷)

《犯行期間》
1960年4月22日~1965年6月1日



∽ 総評 ∽

『The Midday Murderer』と呼ばれ、強盗で7人を殺害したゴスマン。

ただ、ゴスマンの強盗殺人の珍しい所は、銀行や店舗などを次から次へと襲っている所だ。

通常、店舗を襲うと捕まり易く、何店舗も襲い続けるというのは非常に難しい。

時代もあると思うが、ドイツ警察の怠慢振りが浮き彫りになったといえる。

ゴスマンは50年間、刑務所に収監され、結局釈放された。

その後のゴスマンはの様子はわからないが、おそらくまだ生きているだろう。

一体、ゴスマンにはいくらの税金が使われたのか、考えるだけで腹立たしくてたまらない。