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スタッフ・エイケン (ベルギー)
【 1951 ~      】



スタッフ・ヴァン・エイケンは、1951年4月21日、ベルギー・ボンヘイデンで生まれた。

エイケンはジェニーという姉妹がおり、家は貧しかった。

父親はアルコール依存症であり、ある日、家族を捨てて家を出て行った (父親は外国人部隊に加わり後にアルジェリアで自殺した) 。

母親は再婚し、娘が生まれたが、継父もアルコール中毒者であった。

母親は多発性硬化症により車椅子生活を余儀なくされ、娘を育てる事が出来なくなった為、隣人の年配夫婦と一緒に住む事となった。

だが、母親や妹、夫妻らはストーブの煙を吸い込み一酸化炭素中毒で全員が死亡した。

エイケンは継父から虐待を受け、後に手に負えない子供に成長した。

また、エイケンは4年間に渡り叔母に性的虐待を受けた (と後に本人が語っている) 。


1965年8月、エイケン14歳の時、11歳の女の子を虐待し、リハビリセンターに送られた。


エイケンは別の施設に移動し、18歳で軍に入った。

その後、マイゼンで鉄道労働者として働き始めた。


1971年10月13日、エイケンはマリー・テレーズ・ラッセル (18歳♀) の首を絞め、強姦して殺害した。

殺害後、ラッセルを全裸にし、所々噛んだ。

この事件以降、エイケンは『The Vampire of Muizen (マイゼンの吸血鬼) 』と呼ばれるようになる。


2人目の犠牲者はイダ・スミーツ (♀) という大学教授で、スミーツの夫は弁護士であった。

エイケンはスミーツを廃工場に連れ込み、強姦しようとした。

しかし、失敗してしまい、首を絞めた (殺害したつもりであった) 。

エイケンは家に戻り、食事を終えた後、再びスミーツの所に戻ると、まだ、スミーツが生きている事に気付いた。

その為、エイケンは再び首を絞め、今度は殺害した。


1972年3月19日、エイケンは学生のルトガルド・ヴァン・デル・ウィルト (19歳♀) を強姦し、首を絞めて殺害した。

そして、これまでの犯行同様胸を噛んだ。

ウィルトの遺体が発見された時、捜査官は自転車に乗って怪しい行動をとっている男を目撃する。

捜査官はその男が家へ帰る途中を呼び止めた。

すると、捜査官は男の袖に血の染みがあるのを見つけ、その場で逮捕した。

その男がエイケンであった。

エイケンはこれまでの殺人を認め、自分の暗い部分を恐れていると語った。

エイケンはこれまで何人もの女性を襲い、強姦して首を絞め、殺そうとしたと話した。


1974年、エイケンは死刑が言い渡された。

だが、後にベルギーの死刑廃止 (ベルギーは1996年8月1日に死刑を廃止している) と共にエイケンは終身刑となった。


2016年、エイケンは病気の友人を訪ねたいと話し、1日だけ刑務所を出る許可を得た。

しかし、2006年に仮釈放が認められない囚人への休暇日数に対する法律が厳罰化されており、物議を醸した。


現在、エイケンは刑務所に収監されているが、その年数は実に45年に及び、これはベルギーで最も刑務所に収監されている囚人であった。



《殺人数》
3人 (他強姦多数)

《犯行期間》
1971年10月13日~1972年3月19日



∽ 総評 ∽

『The Vampire of Muizen』と呼ばれ、3人の女性を強姦して殺害したエイケン。

エイケンは典型的な強姦殺人鬼であるが、14歳の時に11歳の女の子を虐待する程の早熟振りであった。

エイケンは犠牲者の胸を噛じるという行為をみせており、その為、吸血鬼といわれた。

犠牲者に噛みつくというのはカニバリズムに基づく事がほとんどだが、エイケンは特に人肉を貪ったという詳細はない。

おそらく母親に対する感情がそのような行動に走らせたと推測される。

エイケンは死刑判決を言い渡されたが、後にベルギーの死刑廃止に伴い終身刑に変更となった。

死刑判決直後に廃止されたのならまだ理解も出来るが、死刑が確定してから廃止まで実に22年もの間があり、死刑を執行するには十分な期間である。

昨年、オウム信者への死刑執行や先日も死刑囚が執行された為、元号がかわる前に死刑を執行したとして騒がれた。

個人的には当然だと思うし、新天皇即位と共に恩赦などたまったものではないので、今いる100人程の死刑囚の死刑を今すぐにでも執行をすべきである。

死刑廃止は国の方針なので、納得はいかないが仕方ないが、死刑が確定している囚人の刑を終身刑などに変更する理由が理解出来ない。

死刑が適用されないのは廃止後の犯罪者にであって廃止前の犯罪者にではない。

死刑が廃止と決まった場合、その時点で死刑である囚人にはまとめて執行すればいいと思うのは私だけだろうか。