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ジーン・リー (オーストラリア)
【 1919 ~ 1951 】



ジーン・リー (出生名マージョリー・ジーン・モード・ライト) は、1919年12月10日、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ダッボーで生まれた。

父親をチャールズ、母親をフィレンツェ (旧姓ピーコック) といい、リーは5人兄妹の末っ子であった。

チャールズは鉄道労働者であった。

その後、リーはシドニー郊外で育ち、少女時代は目立たない大人しい子供であったが時折反抗的な態度を見せる事があった。

だが、ローマカトリック学校に通う頃には知的でクラスの人気者であった。


1938年、リー18歳の時にレイモンド・リーと結婚し、1939年4月には娘を産んだ。


数年後、リーの夫は家族を捨てて家を出て行き、リーは1人で娘を育てる事は難しいと考え母親に預けた。

リーの母親は法的に子供達の監護権を求めた後、リーはメルボルンへ移り、そこで軽犯罪に手を染めた。


1943年、リーは売春からの収入を管理していたモリス・ディアスと付き合い始めた。


1946年、リーはメルボルンでロバート・デイビッド・クレイトンという男性と出会う。

2人はすぐに交際する事となるが、リーはクレイトンに暴力を振るわれた。

その後、リーは売春婦として働き始めた。

リーとクレイトンは人からお金を奪う方法「The badger game (美人局) 」を始めた。

リーは男性を部屋に誘い、男性が部屋に入ると夫を演じたクレイトンが部屋に入り込んで来る。

そして、男性に対して激怒しとお金を払うよう脅した。

男性の多くは結婚していた為、妻にバレるのを恐れお金を渡した。

お金を渡す事を拒絶した男性にはクレイトンは殴って奪った。

こうしてリーは1945年5月から1948年7月の間にシドニーの裁判所に実に23回出廷した。

その大部分が暴力による犯罪であった。

クレイトンは刑務所に入ったが、そこでノーマン・アンドリュースという犯罪者と出会い、意気投合する。


1949年10月、刑務所から釈放されたクレイトンはすぐにリー、そして、アンドリュースと合流し、メルボルンへ向かった。


同年11月8日、パートタイムとして働く退職者ウィリアム・ケント (73歳♂) の家をリーたち3人は訪ねた。

ケントの家を訪ねたのはお金を家に置いてあるという情報を入手したからだった。

リーがケントと性行為に及んでいる間にクレイトンとアンドリュースに家の中にあるお金を探させた。

リーは行為に及ぶ際にまず椅子に座らせ、縛って拘束した。

だが、お金を見つける事が出来なかった為、拘束されているケントに殴る蹴るの拷問を加え、お金の在りかを白状させようとした。

ケントは最初は抵抗するが、ポケットの中にお金があるが他にはないと述べた。

そして、ケントに再度拷問を加え、数回刺した後、アンドリュースが首を絞めて殺害した。

近所の住人がケントの悲鳴を聞き、警察に通報した。

警察官がすぐに現場に駆けつけると、すでにリーたちは逃走してその場にいなかった。

家の中は荒れ果て、家具は破壊されていた。

ケントの検視を行うと、喉に異物が詰まっており、陰茎が切り落とされていた。

リーたちはすぐにホテルの部屋に隠れ、血に染まった服を洗い流した。

だが、3人は駆けつけた警察官に逮捕された。


1950年3月20日、裁判が始まるが、それまで3人は互いを非難し、罪を擦り付け合った。

リーはケント殺害は告白したが、自分は暴行や殺害に直接参加しておらず、見ていただけなので無罪だと述べた。

だが、他の2人はリーがケントを椅子に拘束し、何時間に渡って3人でよってたかって蹴ったと話した。

裁判でリーはケントを突き刺す事も首も絞める事もしていないと認められるが、積極的に犯行に荷担したとして死刑が言い渡された。

死刑を言い渡された際、リーはヒステリックに怒りを露にした。

クレイトンとアンドリュースにも死刑が言い渡された。


同年6月23日、控訴裁判所は3人の自白が不適切であったとして再審を命じる判決を下したが、高等裁判所によって判決は覆された。

その後、リーの精神状態が悪化していき、自分は無実であり誰も殺害するつもりはなかったと繰り返しながら看守を激しく攻撃したり慈悲を懇願したりと情緒不安定となっていった。

リーは死刑になるとは思ってなかったと述べ、処刑の日が近づくにつれ、精神状態がますます悪化し不安定になっていった。


1951年2月19日、処刑当日の朝、リーは錯乱状態になった為、鎮静剤を投与して落ち着かせた。

執行人が独房にやって来ると、リーは気を失い倒れた為、椅子に縛り付けられた。

同日午前8時頃、絞首刑による死刑が執行された。

享年31歳。

リーの死刑執行から2時間後の午前10時、クレイトン (この時32歳) とアンドリュース (この時38歳) の絞首刑による死刑が執行された。

クレイトンの最後の言葉は「グッバイ・チャーリー」、アンドリュースの最後の言葉は「グッバイ・ロバート」であった。

リーへの死刑執行は1909年に執行されたマーサ・レンデル以来となり、以降、オーストラリアで死刑は執行されていない為、リーはオーストラリアで最後に執行された女性となった (オーストラリアは2010年に再び死刑を導入しない法案が可決したので、リーはオーストラリア史上最後に執行された女性に確定した) 。

その為、リーはオーストラリアにおいて20世紀に執行された2人の内の1人であった。



《殺人数》
1人

《犯行期間》
1949年11月8日



∽ 総評 ∽

2人の男性と結託し、強盗目的で高齢者を殺害したリー。

リーは逮捕後、他の2人同様罪を擦り付け合い、自身は犯行を見ていただけで直接参加しておらず、無実だと主張した。

裁判でもリーは殴ったり刺したりしていないと結論付けられたが、仮にそうだとしてもそんな凄惨な現場に居合わせている時点で無実なわけがない。

リーは死刑判決後、そのプレッシャーから精神に異常をきたしたが、そういう殺人鬼は意外に多い。

殺人鬼は人の命に冷淡だが、自分の命に淡白な人物も多い。

殺害された側は突然何の準備もなく命を奪われたのに対し、処刑日が決まっている方がまだましである。

人1人平気で殺しておいて自分の執行となると命欲しさに懇願する様は見ていて無様という他ない。

人の命はどうでもいいが自分の命は大切 (酒鬼薔薇もそう発言している) 、裁判では罪を擦り付けて無実を主張する。

個人的に最も忌み嫌う犯罪者である。

リーはオーストラリアで最後に執行された女性となったが、それは1951年であり、オーストラリアは約70年近く女性の死刑を行っていない事になる。

オーストラリアでは1967年に最後の死刑が執行された翌年、あらゆる罪に対して死刑が廃止され、2010年には死刑を再び導入させない為の法案が可決したのは今後、死刑が復活する可能性はなくなった。

オーストラリアは永遠に税金で囚人の面倒を見ると公言した事になり、この可決は絶望でしかない。