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アムロジ (インドネシア)
【 1962 ~ 2008 】



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イマム・サムドラ (インドネシア)
【 1970 ~ 2008 】



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アリ・グフロン (インドネシア)
【 1960 ~ 2008 】



アリ・アムロジ・ビン・ハジ・ヌルハシムは、1962年7月5日、インドネシア・東ジャワで生まれた。

アムロジは13人兄弟の5番目であった。

アムロジは兄弟と共にイスラム教の学校に通った。

また、家族はサウジアラビアに起源を持つイスラム教ワッハーブ派の厳密な宗教家族でもあった。

アムロジは学校の教育や宗教等にほとんど関心を示さず、無関心であった。

人格的に未熟で、通常の知能指数に比べて低かった。

アムロジは学校でも家庭でも問題を起こす事が多く、高校2年の時に学校から追放され、家の物を盗んで売っていた。

23歳の時に結婚し、娘が生まれた。

その後、高校にもう1度通うが、すぐに中退し、結婚生活もわずか2年で終わりを迎える。

その後、アムロジは10年以上会っていない兄ムクラスに会い、その影響でムスリムになる事を考え、タバコと映画鑑賞を止め、1日5回の祈りを欠かさなくなった。

1990年代にアムロジはインドネシアから反逆罪で追放された過激なイスラム聖職者アブ・ベイカー・バシールの講義を何度か受けた。

アムロジは技術者としての才能があり、車や携帯電話の修理を請け負う修理屋となった。

また、整備士として働き、その後、東南アジアを拠点とするイスラム系テロ組織「ジェマ・イスラミア」に所属した。


イマム・サムドラ (またはアブダル・アジズ) は、1970年1月14日、インドネシア・バンテン州セランで生まれた。

サムドラは12人兄弟で母親はシングルマザーであった。

サムドラはイスラムの学校を卒業し、1990年に家を離れると10年間戻って来なかった。

その間、サムドラはマレーシアに行き、1990年代初めに宗教学校で生徒を教えた。

この学校はインドネシアのイスラム過激派「ジェマ・イスラミア」のリーダー、リドゥアン・イサムディンらによって運営されており、後にサムドラもその一員となる。


アリ・グフロン (またはフーダ・ビン・アブダル・ハク) は、1960年2月2日 (9日とも) 、インドネシア・東ジャワのラモンガンで生まれた。

グフロンはアリ=ムクミン・イスラム学校に通い、卒業後、1980年から1989年の間、「国際旅団」の一員としてアフガニスタン紛争でソ連軍と戦った。

グフロンは1987年にオサマ・ビン・ラディンと出会っており、後に「ジェマ・イスラミア」の一員となった。

実はアルカイダは2001年頃から訓練所をアフガニスタンからインドネシアの人目のつかない場所に移しており、そこで訓練を受ける事となった。


2001年12月、「ジェマ・イスラミア」はシンガポールにあるアメリカ大使館爆破を画策するが、事前に情報が警察に漏れ、断念する。


2002年1月、欧米の大使館を狙う戦略を変更し、今度はより警備の薄い、外国人観光客が多く集まるバーやクラブへと標的を変える。

そこで、サムドラはバリ島のレギャン通りで標的を探した。

そして、観光客で最も賑わう2件の店サリ・クラブとパディーズ・バーを標的に決める。


同年10月6日、デンパサールの隠れ家で、首謀者のサムドラら「ジェマ・イスラミア」のテロリストたちが爆弾作りに着手した。

自爆用のベストに火薬1kgを詰め、アメリカ領事館前で爆発させる爆弾を作成する。


同年10月12日、サムドラ、アムロジ、グフロンを含む5人が集まり戦略会議が行われた。

そして、白いライトバンに塩素酸カリウムの混合物1トンを12個の書類用キャビネットに詰め、導火線に繋いだ爆弾を乗せた。

同日深夜、サリ・クラブ30m手前で車を止め、グフロンとアムロジが車から降りた。

そして、もう1人も車から降り、パディーズ・バーに入り、自爆装置を作動させ自爆した (東南アジアでの自爆テロは、ベトナム戦争以来初めての事だった) 。

パディーズ・バーは轟音と共に爆発が起き、そのわずか15秒後、車に乗っていた1人がライトバンの起爆スイッチを押した。

更に40秒後、携帯電話を使ってアメリカ領事館の外で爆発を起こす。

この爆弾は3時間前に仕掛けられていた。

ライトバンの爆発は周囲の車の爆発を誘い、被害は更に甚大となった。

大勢の人々が叫びながら逃げ惑い、現場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。


その後、3日間に渡って焼け跡から遺体を運ぶ作業が続いた。

結局、これらの爆発により202人が死亡、209人が負傷するという大惨事であった。

犠牲者は実に22ヶ国に及び、中でもオーストラリア人の犠牲者は88人と最多であった。

また、このテロ事件は2001年9月11日に起きた「アメリカ同時多発テロ」以来、最悪なものとなった。

事件は瞬く間に世界に伝わり、各国が大々的に報道した。

「アメリカ同時多発テロ」が起きて1年程の爆発だった為、多くの人々がアルカイダによる犯行だと考えた。

警察は捜査を進めると、目撃者からサリ・クラブの外に一方通行の道を塞いで白いライトバンが止まっており、そのせいで渋滞が起こっていたという情報を聞き出した。

捜査官はその白いライトバンに爆弾が積まれていたと確信し、車の持ち主を割り出す為に残骸を探し出す事となるのだが、爆発により他に19台の車と32台のオートバイも破壊された為、ライトバンの残骸だけを探し出すのは至難であった。


4日間の捜索の末、捜査チームの1人がサリ・クラブの向かえにあった2階建ての銀行の屋根に車のシャーシを見つける。

そして、それが白いライトバンのものであると判明する。

その後、専門家の調査でシャーシに刻印された番号を見つけるが、刻印は持ち主が特定されないよう削り落とされていた。

捜査は振り出しに戻り、捜査は行き詰まる。

だが、捜査本部長が再びシャーシを調べるよう指示する。

すると、シャーシは溶接されている事がわかり、それを外すとその下から車両の認識番号が現れた。

削り落とされた2つの認識番号の場所は他の国々と同じだが、実はインドネシアの商用車にはもう1ヶ所刻印があった。

商用車の前の所有者が、補強の為に金属片をシャーシに溶接しており、その下に刻印あったのだった。

捜査チームは車両の購入記録を調べ、これまで7人が購入している事がわかった。

そして、最後の所有者がアムロジである事が判明する。

アムロジはすでに「ジェマ・イスラミア」のメンバーとして当局に知られており、ライトバンに登録された住所に赴くと、まだアムロジは住んでいた。


同年11月5日、アムロジは逮捕され、犯行を自供した。

逮捕された際、アムロジは終始笑みを浮かべ (掲載写真) 、自身の犯行に誇らしげであった。

アムロジ逮捕後、数週間の内に事件の首謀者サムドラとグフロンら34人の「ジェマ・イスラミア」のメンバーが次々と逮捕された。


2003年8月7日、アムロジに銃殺による死刑が言い渡された。


同年9月10日、サムドラに銃殺による死刑が言い渡された。


同年10月2日、グフロンに銃殺による死刑が言い渡された。

他のメンバーには実刑判決を言い渡された。


2008年11月9日、アムロジら3人の銃殺による死刑が執行された。

アムロジは執行直前、恐怖で震え顔色が悪かったという。


最後にアムロジがテロによる犠牲者と、被害の大きさを知った時の心境について語った発言で終わりたいと思います。

「とても幸せな気持ちでした。それは好きな女の子に会えた時みたいでした。でもこの興奮の方がずっと上です」



《殺人数》
202人 (他負傷者209人)

《犯行期間》
2002年10月12日



∽ 総評 ∽

3ヶ所で爆弾テロを起こし、202人を殺害し209人を負傷させたイスラム過激派の「ジェマ・イスラミア」のメンバー。

バリ島ではこの2002年の事件以外に2005年にも発生しており、2度被害に遭うという非常に珍しい場所となった。

このテロ事件は「アメリカ同時多発テロ」以来、最も被害者を出した事件となったが、当時はアルカイダによるテロ事件は各国で頻発していた。

爆弾テロ事件はこれまで世界各地で何度も起こっており、枚挙に暇がない。

テロは大抵が爆弾で行われる為、犠牲者の数が飛躍的に多くなってしまう。

また、特定の人物や決められた場所で行われるわけではない為、用心する事も不可能に近い。

これまで被害に遭った人達も「自分は巻き込まれてないだろう」と思っていたはずであり、いつ自分の身に起こっても不思議ではない。

テロを平然と実行する人達は、必ず一定数存在し、0にする事は不可能である。

その為、対策としてはセキュリティを強化するしかなく、それでもテロは起きてしまう。

後は被害に遭わないよう祈るしかない。