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エイミー・ビショップ (アメリカ)
【1965 ~     】



1965年4月24日に生まれたエイミー・ビショップは、マサチューセッツ州で育ち、父親をサミュエルといった。


ビショップはブレインツリー高校に通い、その後、同州ボストンのノースイースタン大学に通った。

大学でビショップは学士号を取得した。

その後、ビショップはハーバード大学で遺伝学を学び、137ページに及ぶ論文を発表した。

ビショップは博士号を望んだが、匿名の関係者によりビショップに対する中傷が行われ、博士号を取得する事は出来なかった。


1986年12月6日、ビショップはマサチューセッツ州ブレーントリーにある自宅で、弟のセス・ビショップ (18歳) を射殺する。

セスはショットガンで胸を撃たれていたが、母親がキッチンにいる時に2度発砲した。

そして、ビショップは道路を走っている車に銃を向け、車に乗ろうとした。

警察はセスの死を銃の暴発による事故死として処理した為、ビショップが告発される事はなかった。


その後、ビショップはジェームズ・アンダーソンと結婚し、4人の子供を産んだ。


1993年、ビショップと夫のジェームズは、ハーバード大学医学部教授ポール・ローゼンバーグやボストン病院の小児医師にパイプ爆弾を送った。

だが、爆弾は不発に終わり被害者は出なかった。

この時には犯人がビショップだとされなかったが、ローゼンバーグはビショップのかつての上司であった。

ビショップはローゼンバーグから否定的な評価を受けていたと思っており、よくもめ事を起こしていた。


2003年、ビショップはアラバマ州ハンツビルにあるアラバマ大学に生物学科の助教授として働き始めた。

同僚によるとビショップは日頃から奇行が目立ったという。

ビショップの狂った言動によりミーティングも中断する事が多かった。

同僚の1人は在任審査委員のメンバーであり、ビショップの在職を否定し、彼女を「クレイジー」と呼んだ。

それを知ったビショップはその発言を性差別だとして平等雇用機会委員会 (EEOC) に訴えた。

ビショップは生徒からも人気がなく、何人かの大学院生はビショップの移転を求めた。

2009年には「教室でのビショップの態度に不安だ」として数十人の学生が署名した請願書が部長に送られた。

だが、この苦情によって変わる事はなかった。

ビショップはテニュア (終身在職権) を望んでいた。

だが、それを認められなかったばかりか、2010年2月26日付けで解雇される事が決定した。

解雇理由に関しては言及されなかった。


2010年2月12日、ビショップは9mm銃で武装すると、アラバマ大学ハンツビル校に向かう。

そして、シェルビーセンター3階の369号室に入ると、この時、生物学部の教員会議が行われていた。

ビショップは会議に参加し、しばらくは普通に過ごしていた。

30分から40分経過した午後4時頃、ビショップは銃を取り出し突然発砲した。

この銃撃で生物学科会長ゴピ・ポディラ、生物学教授マリア・ラグランド・デイビス、生物学教授アドリエル・ジョンソンが死亡、生物学教授ルイス・ロジェリオ・クルス (翌日の13日に退院) 、生物学教授ジョセフ・リーヒ (同年4月14日に退院したが、2017年10月15日に心臓発作で死亡している) 、スタッフアシスタントのステファニー・モンチチョーロ (同年3月29日に退院) が負傷した。

銃撃の場にいた生存者は
「彼女が突然立ち上がり銃を取り出して最も近い相手の頭を撃った。その後、1人1人撃ち始めた」
と後に話した。

一通り銃撃が終わった後、デボラ・モリアリティ学部長が、ビショップに銃を下ろすよう促すが、ビショップはモリアリティに向かってトリガーを引いた。

しかし、鈍い音が響いたが銃弾は放たれなかった (銃口が詰まったか弾薬を使い果たしたと思われる) 。

弾が出ない事にビショップは怒ったが、その隙にモリアリティがビショップを部屋から追い出した。

後に生存者は
「彼女の勇敢な行動が私たちの命を救った」
と話した。

ビショップは建物から外に出るが、わずか数分後に逮捕された。

ビショップが使用した銃は女性トイレで見つかった。

ビショップは殺人と殺人未遂で起訴された。


同年3月12日、警察はビショップの家を家宅捜索し、その最中に爆発物と疑わしい装置を見つけ、近隣住民に避難を促した。

だが、後にそれは爆発物でない事がわかった。

ビショップの弁護士は刑務所を訪問し話をしたが、ビショップは事件の事を覚えていないと述べた。

その為、ビショップを被害妄想型統合失調症だと判断した。

ビショップは事故として処理された弟のセス殺害とパイプ爆弾による殺人未遂事件でも起訴された。

ビショップは殺害する事が出来なかったローゼンバーグについて

「撃って刺して絞め殺したかった」

と述べた。


同年6月18日、ビショップは刑務所内で自殺を試みた。

しかし、自殺は未遂に終わり、病院で治療を受けた後、刑務所に戻された。

ビショップの夫ジェームズは、自殺の事を知らせなかったと訴えた。


同年11月、生存者のリーヒとモンチチョーロがビショップに損害賠償を求める訴訟を起こした。


2011年9月、弁護士はビショップの精神状態を理由に無罪を訴えた。


2012年、犠牲者の配偶者が裁判官に手紙を書いた。

それには被害者遺族の悲痛の叫びが綴られていた。

この手紙を受けビショップの弁護士は、検察側が死刑を求めない事と引き換えにビショップが有罪判決を認める嘆願の変更を申し出た。

検察官は生存者9人が死刑を求めていない事に基づき、ビショップの申し出を受けいれた。


同年9月24日、ビショップには仮釈放の可能性がない終身刑が言い渡された。

ビショップは刑務所で囚人のエイミー・マクリンを襲撃し、その後、入院する事となった。

前日にビショップはマクリンと口論となっていた。


最後に逮捕直後に同僚の殺害について聞かれた際のビショップの言葉で終わりたいと思います。

「方法がなかった。彼らはまだ生きている」



《殺人数》
4人 (他負傷者3人)

《犯行期間》
1986年12月6日、2010年2月12日



∽ 総評 ∽

実の弟と同僚を射殺したビショップ。

ビショップは自分が働いている大学に侵入し、銃を乱射したが、アメリカでの銃乱射事件はこれまで何人も紹介してきている通り珍しくはない。

ただ、銃乱射事件の犯人はそのほとんどが男性によって行われており、女性が行うというのは非常に珍しい。

ただ、銃乱射事件は特定の相手を定める事なく、目に入った相手をひたすら銃撃していく事がほとんどだが、ビショップは相手を選んでおりそういった点でも珍しい。

ビショップは実の弟を殺害し、しかも、自身の勤務態度など無視して犯行に及んでおり、身勝手極まりなく救いようがない。

だが、弟殺害については理由が全くわからない。

「人を殺してみたかった」といって殺人を試みる異常者と同じような心理なのだろうか。

ビショップは精神を完全に破綻させており、良心が欠落したサイコパスといえる。

ただ、何故ビショップがそうなったのか幼少時の家庭環境の詳細がなくよくわからない。

個人的には女性による精神の破綻振りが以前掲載したイギリスのジョアンナ・デネヒーと酷似しており、双璧を成す存在だと思う。