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ダルトン・プレジャン (アメリカ)
【1959 ~ 1990】



ダルトン・プレジャンは、1959年12月10日、アメリカ・ルイジアナ州ラファイエットで生まれた。

プレジャンは4人兄弟の2番目であった。

プレジャンは生まれて2週間程でテキサス州ヒューストンに住む叔父夫婦に育てられた。


プレジャン11歳の時、両親が離婚し母親がヒューストンに移り住んだ為、叔父夫婦は本当の子供でないとプレジャンに打ち明ける。

その事にショックを受けたプレジャンは、引っ越してきた母親と住む事となった。


1972年3月、プレジャンはラファイエットに戻り、母親の指示によりルイジアナの訓練施設に入った。


7ヶ月後、プレジャンは施設を出ると、すぐに窃盗や強盗、または偽装銃等の罪で逮捕された。


1974年3月、プレジャンはラファイエット青少年児童局により非行少年らの更生プログラムに参加する。

だが、すぐに嫌気がさしたプレジャンは、わずか1ヶ月後に逃げ出した。


同年6月、プレジャンの友人2人が強盗目的でタクシーを呼んだ。

そして、やって来たタクシードライバー、ジョン・ドゥーセ (♂) を人気のない静かな場所に誘導した。

友人の1人が銃を持っていたが、プレジャンは友人らが緊張していると感じ、銃を渡すよう促し受け取ると、ドゥーセに接近して至近距離から2発撃った。

発砲後、走ってその場を離れ、途中通行人に救急車を呼ぶよう言った。

プレジャンは逮捕され殺人を認めたが、この時、プレジャンはわずか14歳であった。

年齢を考慮されたプレジャンは、再びルイジアナの訓練施設に収監された。

精神鑑定が行われると、プレジャンは精神遅滞と診断された。

精神鑑定を行った医師は、
「自分自身や他人にとって明確に危険」
だと話し、プレジャンに対する長年の拘禁を勧告した。

少年裁判所でプレジャンは医師の勧告の通り、21歳 (1980年12月) まで施設に収監される事となった。


だが、1976年に別の医師がプレジャンを診断し、退院する事を勧めた為、退院する事となった。

退院を促した医師だったが、
「適切な条件 (安定した環境で十分な監督を受ける事) を課されるべきだ」
と話し、かなり厳重な保護観察所に収容すべきと警告した。


1976年12月10日、プレジャンは保護観察の必要はないとしてヒューストンの叔母の家に再び戻った。


1977年7月2日午前5時頃、プレジャンは兄弟のジョセフ、マイケル・ジョージ、マイケル・ブリザードの4人でナイトクラブに行き、その後、近くのラウンジで酒を飲んだ。

4人は1966年製のシボレーに乗って家路につくが、テールランプが点いていなかった為、保安官の車に停まるよう促される。

この時、プレジャンは免許を持っていなかった為、ジョージかブリザードと席を替えようとするが、保安官のドナルド・クリーブランド (♂) に車から降りるよう警告される。

すると、プレジャンはクリーブランドを撃って射殺する。

プレジャンはその日のうちに逮捕された。

再びプレジャンに対する精神鑑定が行われ、ウィリアム・ホーキンス博士は、プレジャンは言語IQが82、行動に関しては72と診断し、精神年齢は13歳6ヶ月 (この時プレジャンは17歳) とした。

プレジャンは第一級謀殺で起訴されたが、年齢と精神状況により審理が行われる事となった。


1978年5月1日から3日間に渡る12人の陪審員らの審理の末、死刑判決で一致した。

しかし、プレジャンの弁護士が、IQ71という事と、統合失調症であり、乳児の時に親に見捨てられた事を挙げ、酌量を訴えた。

だが、プレジャンには死刑判決が言い渡された。


1989年11月、プレジャンの死刑執行日時が決められた。

これを受けて欧州議会は減刑や証拠の見直しを求めた。

アムネスティ・インターナショナル (1961年に発足した世界最大の国際人権NGO) 代表は
「近年の世界史においてそのような理由で処刑を行う事に疑問を抱いている」
と述べた。

しかし、当時のルイジアナ州知事バディ・ロメルは、仮釈放勧告を拒絶すると死刑執行を確定し、
「毎日命を賭けて職務をこなす780人の警察官と何千という州警察官に代わって死刑は執行する」
と述べた。


1990年5月18日、プレジャンに電気椅子による死刑が執行された。

享年30歳。

プレジャンの最後の言葉は

「ここ数年、私を支えてくれた人愛してくれた全ての人に感謝したいと思います。私の息子はこのような事で命を落とさないよう良い人になるでしょう。彼らは復讐の為ではないと言ったが私は祈り続ける。私が死んで彼らが幸せになれば幸いです。だから私は人生を終える。神の御加護を」

であった。

このプレジャンへの死刑執行は、1976年、アメリカで死刑が復活して以来128番目、ルイジアナ州では19番目であった。

プレジャンへの死刑執行は執行前から物議を醸し、また、国際的にも注目を集めた。

最初の殺人の時14歳で、2度目の殺人の時ですら17歳であり、また、IQ71という事などから世界の人権擁護派が悉く死刑に反発した (しかし、アメリカでは法律上死刑判決を下されないのはIQ70以下である) 。

また、陪審員が全員白人であった事、殺害された保安官が白人であった事から死刑を強行したと騒がれたのだった。



《殺人数》
2人

《犯行期間》
1974年6月、1977年7月2日



∽ 総評 ∽

わずか14歳と17歳という年齢で殺人を行ったプレジャン。

プレジャンの犯行は快楽殺人とは違うが、この若さでの凶悪性はかなりのものといえる。

プレジャンは生まれてすぐに親に捨てられ、後に後に育ててくれた叔父叔母が実の両親でないと知りショックを受けた。

この事がプレジャンの精神を破綻させたのは間違いないだろうが、正直同じような環境で立派に育っている人間は多くおり、とてもプレジャンを擁護出来ない。

精神鑑定を行った医師も医師で、個人的に厳重な保護観察所に収容すべきだと言うのならそもそも退院を促さなければいいのではないかと思う。

元々1980年12月までは退院出来なかったのに、今回の再犯はある意味その医師の責任と言っても過言ではないだろう。

ヨーロッパの人権擁護派はこぞって死刑に反対したが、これ程の凶悪な犯行を行った人間によくそんな事を言えるものだとむしろ感心してしまう。

また、IQ70以下には死刑判決を下さないという法律 (この法律自体も納得はいかないが) があるにも関わらず、71で文句を言ってくる 理由も理解出来ない。

これまで同じような死刑反対や執行の停止を求める人権派の偽善な態度をいくつも紹介してきたが、何度見ても苛立ちを隠せない。

毅然とした態度で臨んだルイジアナ州の知事に賛辞を送りたい。