_20180725_221941
ジェームズ・リッチー (アメリカ)
【1976 ~ 2016】



ジェームズ・デール・リッチーは、1976年11月4日、アメリカ・アラスカ州アンカレッジで生まれた。

リッチーはアンカレッジのワンダー・パーク地区で育った。


1994年、リッチーは将来プロのバスケットボール選手として活躍する事となる2人の選手と共にプレーし、リッチー自身も将来有望な選手であった。

同年、リッチーはウェストバージニア大学に通ったが退学し、その後、アラスカ州に戻った。


リッチーは1995年から麻薬取引に手を出し、1998年までドラッグディーラーであった。

その後、リッチーは7年間で何度も逮捕されては釈放された。

逮捕理由は薬物関連が主であった。


2005年、リッチーはプラスチック製の手錠と2つの銃で武装すると、家の中に侵入する。


2年間、服役した後、釈放されたリッチーはコルト・パイソンを購入する。


2013年、リッチーはコルト・パイソンを知人に貸すと、バージニア州ブロードウェイに移動した。


その後、恋人と別れたリッチーは、2016年3月、アラスカ州に戻った。

そして、知人からコルト・パイソンを返してもらうと、空港ハイツで宿泊した後、アンカレッジのペンランド・パークウェイに移動した。

この頃、リッチーはメンタルヘルスケアを求めたが、実際、診断を受けたかはわからなかった。


同年7月3日早朝、リッチーはブライアン・フォイジー (21歳♂) とジェイソン・ネッター (41歳♂) を射殺する。

フォイジーはホームレスで薬物中毒者であった。

また、フォイジーとネッターとの関係性については公表されなかった。


同年7月5日、アンカレッジ警察はフォイジーとネッター殺害の際、監視カメラに映し出された2人の未確認の男性の画像を公開した。


同年7月29日午前3時過ぎ、リッチーはボビー・ドゥエイン・トンプソン (21歳♂) を射殺する。

実はリッチーはトンプソンの父親と学生時代の友人であった。

3人の少女が銃撃を聞き、現場に駆けつると、丁度リッチーがトンプソンの自転車に乗って走り去ろうとしている所だった。

だが、少女たちはリッチーが犯人とは思わなかった。

警察が現場に駆けつけ、トンプソンの遺体を発見する。

警察は目撃者の情報を集め、スケッチが作成された (このスケッチは非常に似ていた) 。


同年8月28日朝、リッチーは公園の谷でケヴィン・ターナー (34歳♂) とブライアン・デ・ヒューソン (25歳♂) を射殺する。

午後1時42分頃、公園を歩いていた女性がヒューソンの遺体を発見する。

警察が到着し公園内を調べると、ターナーの遺体と弾丸を発見した。

ターナーはホームレスであり、統合失調症と双極性障害に苦しんでいた。

また、ヒューソンは著名な環境活動家で、ターナーとヒューソンは知り合いでもなんでもなかった。

警察はターナーとヒューソンに使用された銃が、フォイジーやネッター、そして、トンプソンに使用された物と同じだとし、同一犯による犯行だと断定した。


同年9月6日、アンカレッジ市長イーサン・ベルコウィッツが記者会見を開き、事件について言及した。

FBIは容疑者に繋がる有力な情報提供者には1万ドル (約100万円) の報酬を提示した。

トンプソンの母親マンディは、息子が殺されてから独自に調査をしていた。


すると、同年10月、マンディは犯人をリッチーだと確信し、警察に連絡する。


同年11月12日、警官のアーン・サラオは、通りを歩いているリッチーを見つけ、連行しようとすると、リッチーはコルト・パイソンを取り出しサラオに向かって発砲した。

サラオは少なくとも4発浴び、肝臓や腸を損傷した。

撃たれたサラオだったが、撃ち返して応戦した。

すると、援軍が駆けつけ、リッチーに向かって発砲し、その場で射殺された。

サラオはすぐに病院に搬送され、7時間の手術の末、一命を取り留めた。



《殺人数》
5人 (他負傷者1人)

《犯行期間》
2016年7月3日~同年8月28日



∽ 総評 ∽

5人を射殺したリッチー。

リッチーの犯行は2ヶ月足らずで行われており、シリアルキラーというよりスプリー・キラーと呼べるだろう。

だが、リッチーの犯行がよくわからない。

相手もバラバラであり強盗や強姦目的でもなかった。

ただ、だからといって無差別な犯行かといえば標的には知り合いの人間もおり、動機がよくわからない。

本人はすでに死んでしまっている為、今後、永久にわかる事はないが、アラスカ州は死刑を廃止しているので、射殺した警官に賛辞を送りたい。