_20180712_152132
デブラ・タグル (アメリカ)
【1958 ~     】



デブラ・スー・タグルは、1958年、アメリカ・アーカンソー州で生まれた。


1972年、タグルは、わずか14歳でウィリアム・ヘンリー (♂) を生む。


1974年、タグルはトーマス・ベイツ (♂) を生んだ。


同年、ヘンリーとベイツが相次いで死亡する。

ヘンリーは1歳9ヶ月、ベイツはわずか2ヶ月であった。

アーカンソー州リトルロックの病院の医師は、子供たちが死亡した際の悲しむタグルの姿を見ていた。

結局、子供の死因について原因がわからず、SIDS (乳幼児突然死症候群) とされた。


1975年、タグルはロナルド・ジョンソン (♂) を生む。


1976年、ジョンソンが突然呼吸が停止し、そのまま死亡した。

ジョンソンはこの時、9ヶ月であった。

タグルはジョンソンの葬式で深い悲しみに暮れた。

ジョンソンの死も原因はわからず、ヘンリーたちと同じくSIDSとされたが、警察は立て続けに3人の子供が突然死した事に疑問を抱き、捜査を行った。

しかし、証拠がなく、結局起訴する事は出来なかった。


1978年、タグルは自ら腹部を撃って自殺を図った。

病院に搬送されたタグルだったが、懸命の治療の末、一命を取り留めた。


1979年、タグルはテレンス・タグルを生んだが、テレンスもすぐに死亡した (このテレンスの死亡に関しては実際に病死とされている) 。


1982年、リトルロックに戻ったタグルはジョージ・パクストンと出会い、同棲する事となる。

パクストンにはトメキア (♀) を含め3人の連れ子がいた。


同年春、タグルはパクストンの子供を妊娠する。


同年6月、パクストンが映画に行っている間、トメキア (2歳) が自宅で死亡する。

この時、家にはタグルがいたのだが、医師がタグルに説明を仰いだが何も答える事が出来なかった。

ただ、医師はこれくらいの幼児の急死は多くはないがあり得ない事ではないので、それ以上タグルを追及しなかった。

しかし、タグルは自身の妊娠を快く思っておらず、中絶を試みたが失敗に終わった。

家庭医はタグルを精神病院に入院させたいと思うが、精神科医の医師は真剣に取り合わなかった。


1983年11月、精神科医のアレクサンダー・ミラーは、タグルが過去10年間に5人の子供を失っている事を知る。

警察もトメキアの死について捜査を進めた。


1984年3月20日、タグルはトメキア殺害容疑で逮捕された。

タグルは起訴され、保釈金は75万ドル (約1億8000万円) に設定された。


裁判が行われると、他の子供達の死についても言及された。

警察は他の子供達についてもタグルによる犯行だと考えていた。

タグルはヘンリーとベイツが亡くなった時、精神病を患っていた事がわかった。

また、タグルの子供達は全て父親が異なっている事がわかった。

検察はタグルがトメキアを溺死させ、ヘンリーとベイツを窒息死させたと主張した。

また、殺害動機について、タグルはそもそも子供を育てるつもりがなく、その為、邪魔な子供を排除したと主張した。


1984年9月18日、タグルは有罪判決を受け、懲役10年が言い渡された。


同年12月7日、検察は3人の子供の殺害について起訴を断念した。


1994年、刑期を終えタグルは出所した。



《殺人数》
4人?

《犯行期間》
1974年~1982年6月



∽ 総評 ∽

実の子供を含む4人を殺害したとされるタグル。

実の子供を次々と手にかける母親というのは稀に存在する。

ただ、その場合、理由は大抵が保険金によるものか「代理ミュンヒハウゼン症候群」によるものだ。

だが、詳細がない為、正確な事はわからないがタグルはそのどちらでもない。

本人が語らない為わからないが、検察がいうにはタグルが子供を育てるつもりがない為殺害に至った。

確かに子供を育てる事を何も考えず無責任に次々と子供を生む女性はたまにいる。

タグルが殺害した理由は正確にはわからないが、検察のいう動機がそうなのだと思う。

ただ、証拠の不十分さなどからタグルは懲役10年となり現在はもう出所している。

出所から20年以上経っており、現在のタグルの様子はわからないが、何も起こってない事を祈る。