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コリン・ピッチフォーク (イギリス)
【1960 ~     】



コリン・ピッチフォークは、1960年3月23日、イギリス・レスターシャー州ニューボールド・ヴェルドンで生まれた。


ピッチフォークはボールド・ヴェルドンの学校に通い、1976年から「Hampshires Bakery (ハンプシャー・ベーカリー) 」で働き始める。

ピッチフォークはケーキ装飾の彫刻家として特に熟練し、将来はケーキ装飾のビジネスを行いたいと思っていた。

職場の上司は後に
「労働者としては良かったが、彼は常に不機嫌であった。また、1人の女性従業員を気にしていた」
とピッチフォークについて語っている。


1981年、ピッチフォークは結婚した。

だが、ピッチフォークは結婚前に暴行で逮捕され、有罪判決を受けてカールトンヘイズ病院に通院する事となった。

その後、ピッチフォークは2人の息子を生んだ。


1983年11月21日、リンダ・マン (15歳♀) は、友人の家に向かう為に自宅を出た。

だが、それがリンダの最後の姿となった。

翌日、リンダの遺体が荒れ果てた歩道の脇で見つかった。

リンダは強姦されており、死因は首を絞められた事による絞殺であった。

警察はリンダの遺体に残された精液のDNAを調べた所、男性の10%にしか含まれない酵素が含まれている事がわかった。


1986年7月31日、ドーン・アシュワース (15歳♀) が、家に帰って来る途中、行方不明となる。

2日後の8月2日、アシュワースの遺体が「The Pound Lane」と呼ばれる歩道近くの森林地帯で見つかった。

アシュワースは酷く殴られ強姦されており、リンダ同様死因は絞殺であった。

アシュワースに残された精液のDNAは、リンダと同じ特殊なものである事が判明した。

当初、容疑者は精神遅滞の地元の若者リチャード・バックランド (17歳♂) だとされ、バックランド本人もアシュワース殺害を認めていた。

だが、バックランドの血液検査を行うと、リンダとアシュワースに残されたDNAとは一致しなかった。

警察は5500人以上の地元の男性から血液や唾液のサンプルを求め、6ヶ月かけて調べるも一致する者は誰1人いなかった。


1987年8月1日、ピッチフォークが「Hampshires Bakery」の同僚イアン・ケリーと会話を交わしているのを聞いた女性が、警察に通報する。


そして、同年9月19日、ピッチフォークは逮捕され、尋問を行うとピッチフォークは犯行を認めた。

ピッチフォークは10代前半からこれまで1000人以上の女性 (少女) に対して欲望を抱いていた事がわかった。

その後、強姦に踏み切り強姦したが、警察に知らされる事を恐れ、絞め殺した事がわかった。


1988年1月22日、裁判でピッチフォークは最低30年は仮釈放の可能性がない終身刑が言い渡された。


だが、2009年、ピッチフォークは控訴の結果、最低30年の仮釈放の可能性がない期間が、28年に短縮された。

余談だが、ピッチフォークはイギリスで大規模なDNA検査により逮捕された初めての例となった。



《殺人数》
2人

《犯行期間》
1983年11月21日、1986年7月31日



∽ 総評 ∽

少女2人を強姦し、絞め殺したピッチフォーク。

イギリスの殺人鬼はペドフィリア (小児性愛者) が多く、このピッチフォークも典型的なイギリス型の殺人鬼といえる。

ピッチフォークは15歳の少女を強姦して殺害したが、本人曰く10代前半から1000人以上に対して欲望を抱いていた。

ピッチフォークがリンダを殺害してからアシュワース殺害まで約3年の間が空いており、その間についてはよくわからない。

ただ、このようなペドフィリアの凶悪犯が自身の欲求を抑制出来るはずもなく、おそらく被害者は他にもいると思われる。

ピッチフォークは最低28年は仮釈放の可能性がない終身刑となったが、1988年に判決が言い渡されているので、2016年には仮釈放される可能性がある。

詳細がなくその後についてはよくわからないが、すでに仮釈放されている可能性もあり、そう考えると非常に恐ろしい。