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アンソニー・ラボード (アメリカ)
【1949 ~ 2016】



アンソニー・ラボードは、1949年6月25日、アメリカ・ニューヨーク州ニューヨーク近郊のフラッシングで生まれた。

ラボードは5人兄弟の4番目であった。


ラボード15歳の時、マルコム・Xが殺害され、この事件に衝撃を受けたラボードは政治に興味を抱くようになる。

また、ラボードはアフリカ系移民による市民権獲得の運動に対する政府の弾圧に憤りを覚え、ニューヨーク・クイーンズ区ジャマイカで兄弟と共にグラスルーツ諮問委員会を始める。

その後、ラボードはブラックパンサー党 (1960年代後半から1970年代にアメリカで黒人民族主義運動及び黒人解放闘争を展開していた政治組織) の党員となり、また、黒人解放軍 (1971年から1981年までアメリカで反政府運動を行っていたアフリカ系の黒人による軍事組織) や新アフリカ共和国 (通称『RNA』、アフリカ系アメリカ人分離運動による暫定政府形式の運動体) に加わった。

ラボードはこれら組織に所属するが、最も効率的かつ有効的に人々に影響を及ぼす事が出来ると考える。

ラボードは組織の一員として、子供達への朝食無料提供や、衣類の無料配布、青少年の為の学校や成人への政治教育授業等、様々なプログラムに参加し、尽力した。

ラボードはブラックパンサー党やRNAで、学校のコミュニティ管理、地域の医療等、重要な地域社会の問題にも関わった。


1981年5月1日、警察官のジョン・スカランジェラ (42歳♂) とリチャード・レイニー (♂) は、最近、エリア内で頻繁に発生していた窃盗事件の目撃証言に合ったバンを見つける。

スカランジェラとレイニーは車両から降りようとした所、バンに乗っていた2人の男性が9mmの半自動拳銃でスカランジェラとレイニーに向けて発砲した。

銃撃は合計で30発にも及び、スカランジェラは頭部に2発、レイニーは背中と足に14発被弾した。

スカランジェラとレイニーはすぐに病院に搬送されるが、スカランジェラは必死の治療のかいなく2週間後に死亡してしまう。

レイニーは重傷を負ったものの一命は取り留めたが、警察官として働く事は出来なくなり、翌年の1982年、引退を余儀なくされた。

容疑者2人は逃走するが、1人はノースカロライナ州で逮捕された。

逮捕されたのはジェームス・ディクソン・ヨークというRNAに所属する男性であった。


1982年1月、もう1人の容疑者が、ペンシルベニア州フィラデルフィアで歩いている所を逮捕された。

逮捕されたのはラボードであった。

ラボードは逮捕される際、銃を落として逃走し、捕まる時には警官と激しい争いを行った為、警官は負傷した。

ラボードはスカランジェラとレイニーを撃った際に使用した銃を所持していた。


1986年7月、ラボードとヨークは殺人罪で有罪判決が下され、それぞれ懲役25年が言い渡された。

刑務所に収監されたラボードは、後にイスラム教に改宗し、名前を「アブドゥラ・マジド」に改名した。


2008年8月30日、ヨークは刑務所で死去する。


2016年4月3日、胆嚢の炎症により死去した。

享年66歳。



《殺人数》
1人 (1人負傷)

《犯行期間》
1981年5月1日



∽ 総評 ∽

反政府組織の一員として警官を殺害したラボード。

当時、黒人によるデモや活動は活発であり、アメリカ国内で頻繁に起こっていた。

ラボードもそれに便乗して組織の一員となった。

ラボードは黒人による新政府を立ち上げ、アメリカ合衆国からの独立を目指した。

当時は今以上に黒人差別が顕著であり、ラボードのような気持ちになり何とか黒人の社会を築きたいというのは十分理解出来る。

ただ、個人的に仮に黒人による新政府が出来たとしても、その後、しっかりと機能するとはとても思えない。

自分達の置かれている立場が嫌で独立や反発するのはいいのが、こうった場合、その後のプランは何も考えていないのが大抵だ。

それはアフリカ諸国をみれば明らかである。

アメリカで警官殺しとなれば当然死刑や終身刑は間違いないが、ラボードは懲役25年であった。

これは恐らく死刑にした場合の黒人社会からの反発や暴動を恐れての事だろう。

もしそうだとしたらこんな事で刑罰に気を使わないといけないアメリカ社会に問題を感じずにはいられない (ただし、ラボードは懲役25年なのに30年刑務所に収監されており、結局、世間的には懲役25年だが終身刑という扱いだったと思われる) 。