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ロバート・バルトビック (カナダ)
【1967 ~ 】



ロバート・バルトビックは、1965年7月17日、カナダで生まれた。


1990年、バルトビックはオンタリオ州スカーバローにあるトロント大学で、心理学と歴史学を学び、学位を取得した。

この大学在学中に、バルトビックはエリザベス・マリー・ベイン (22歳) という女性と知り合い、交際する事となる。


同年6月19日、ベインは母親に
「テニスのスケジュールをチェックしてくる」
と言って家を出た後、姿を消した。


同年6月22日、ベインの車が見つかり、後部座席に大きく広がる血痕が見つかったが、ベイン自身は捜査を続けても見つからなかった。


同年11月19日、ベインの行方不明に関する容疑で逮捕されたのはバルトビックであった。

しかも、バルトビックは逮捕後、一次、殺人罪で起訴された。

逮捕されたバルトビックは無実を主張した。

その為、何年間も裁判が続いた。

バルトビックは裁判中も常に一貫して無実を訴えた。

バルトビックの弁護士は、ベインが行方不明となったのは『Scarborough rapist (スカーバローの強姦魔) 』と呼ばれたポール・ベルナルドによる可能性が高いと主張した。


1992年3月31日、バルトビックは2度目の殺人罪で有罪判決が下され、終身刑が言い渡された。

バルトビックの弁護士はすぐに上訴した。


2000年3月31日、バルトビックは上訴の結果が出るまで保釈される事となった。


2004年9月、バルトビックの訴えは最終的に拒絶された。

バルトビックの弁護士は冤罪だと訴え、ベルナルドがベインを殺害したと主張した。

弁護士はベイン殺害をベルナルドに結び付ける証拠を提示した (状況証拠) 。

この頃、再び事件は国民の注目を集める事となった。


2005年7月15日、オンタリオ州知事はバルトビックは新たな裁判を受ける可能性を示唆した。

その間、バルトビックはオンタリオ州政府の図書館の職員として働いた。


2008年3月31日、バルトビックの裁判が開始され、同年4月22日、裁判官は陪審員に無罪判決を下すよう指示した。

これによりバルトビックの無罪は確定したが、実に18年の歳月が流れていた。


2010年4月21日、過失捜査や悪意ある訴追等に関して民事訴訟がバルトビックによって提出された (現在も継続中である) 。



《殺人数》
1人


《犯行期間》
1990年6月19日




∽ 総評 ∽

ガールフレンドが行方不明となり、その犯人とされたバルトビック。

バルトビックは無罪となるまでの18年間の内、約8年間刑務所で過ごした。

バルトビックは結局最後まで死体が発見されず、それは現在もそうだが、死体が発見されていないにも関わらず、一時は有罪判決が下された終身刑となった。

これまで冤罪事件はいつくか紹介してきたが、大抵が死体が発見されており、その様子から犯人され冤罪となったケースが多い。

しかし、バルトビックの場合はベインは見つかっておらず、また、恋人同士なので一緒にいたという証言が出るのも不思議ではない。

捜査当初は怪しいとして容疑者候補に挙げられるのは仕方ないが、犯人と決めつけるにはあまりに色々な部分が弱すぎる。

ベインは見つかっていないので凶器も特定出来ず、バルトビックを犯人とするには状況証拠のみしかない。

バルトビックがこれまで犯罪を繰り返す録でなしならまだ話もわかるが、バルトビックはそうではない。

しかも、殺人罪で起訴されたが、実際、ベインは死体が発見されておらず、殺されたどうかはわからない (ほぼ間違いないが) 。

バルトビックの弁護士は犯人はシリアルキラーのポール・ベルナルドだと主張し、その証拠も提出したが、ベルナルド自身は何も言ってない為、実際はわからない。

当時、世間を騒がせていたシリアルキラーの犯行にしてしまおうと弁護士が考えただけかもしれないが、状況証拠を提出しているのでそれなりの根拠があったと思われる。

「疑わしきは被告人の利益に」という司法のあり方はもはや皆無といえる。