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トゥック・レン・ハオ (シンガポール)
【1981 ~ 2006】



黄娜 (フゥァン・ナー) は、1996年9月26日、シンガポールで生まれた。

父を黄慶龍、母を黄淑英といった。

両親は中国福建省生まれの中国人であり、その為、黄娜も生粋の中国人であった。

黄娜が生まれて間もなく、黄慶龍の浮気が発覚し、両親は離婚した。

黄娜は母親に引き取られ、その後、黄淑英は中国人実業家、鄭文海と再婚した。


2003年には黄娜に異父弟2人が生まれている。

黄娜はパシル・パンジャン卸売市場近くの小学校に通った。

黄娜は明るく闊達で、誰とでも仲良くなれる性格であった。


2004年10月10日、黄娜はパシル・パンジャン卸売市場近くのフードコートで目撃されて以降、行方不明となってしまう。

当初は黄娜が行方不明とは思われなかった。

実は日頃から黄娜の両親は仕事で家を空ける事が多く、その為、黄娜はよく市場で時間を潰していたからだった。

ただ、この時は両親は中国に帰国中であり、同居人の友人に黄娜の世話を頼んでいた。

だが、この友人も仕事で家を空けており、その為、黄娜は時間潰しで市場にいた所、行方不明となったのである。

黄娜が行方不明だと知ると、黄淑英はすぐに中国から戻り、警察に通報すると、自らも昼夜問わず黄娜を探した。

事件が公になると、警察のみならず多くのボランティアも黄娜捜索に協力した。

それでも黄娜は見つからず、警察は有力な情報提供者には1万シンガポールドル (約65万円) の報酬を支払うと隣国マレーシアにも捜査協力を要請した。


同年10月19日、警察は目撃情報を入手する。

それは行方不明となった直前に、黄娜が1人の男性と遊んでいたというものであった。

その男性はトゥック・レン・ハオというマレーシア人である事がわかった。

ハオはインドネシア人の妻がおり、生まれたばかりの子供もいた。

また、パシル・パンジャン卸売市場で野菜の梱包する仕事をしていた。

早速、警察はハオに事情聴取を行う。

ハオは18歳の時、マレーシアからシンガポールに移住し、今の仕事に就いたのだが、日頃、市場で時間を潰していた黄娜とは顔馴染みであった事がわかった。

また、普段ハオは黄娜の遊び相手でもあり、黄娜がお腹を空かせた時は軽食を買い与えたり、自分のバイクに乗せる事もあった。

ハオは警察の事情聴取に対し、

「3人の中国系の男たちが黄娜を連れ去るのを見た」

と供述する。

だが、警察はハオが嘘をついていると考え、
「ポリグラフ検査 (嘘発見器) を受けて欲しい」
と頼んだ。

ハオは承諾し、警察署で検査を受ける予定であったが、逃亡を図る。

この逃走で犯人をハオと確信し、警察は必死になってハオを捜した。


同年10月30日、これ以上の逃走は無理だと判断したハオは警察に出頭した。

黄娜の遺体はハオの供述通りの場所にあり、ポリ袋の中に入れられ段ボールに納められていた。

黄娜の死体は腐敗が進んでいた。

ハオは

「いつものように黄娜と物置部屋でかくれんぼをした。黄娜の足首を縛り部屋の電気を消して外に出た。しばらくすると大きな音がしたので驚いて部屋に戻り電気を点けたら黄娜が床に倒れていた。口から血を流して目はカッと見開き大量のお漏らしをしていた。驚いて頭が真っ白になった。どうしていいかわからなくなり、血を吐いて痙攣する黄娜を眺めている内、首を手刀で意識が戻る事があるというのをテレビで見たのを思い出し、何度もやってみたが更に大量の血を吐いてしまった。最後はパニックになって首を絞めてしまった」

と淡々と語り、本人なりに助けようとしたと供述した。

更にハオは

「黄娜が突然しゃっくりを始めたので、止めようと首を3回踏みつけた。黄娜の目は見開いたままで、次第に黄娜の顔色が灰色に変わっていった。怖くなり黄娜が着ていた服を脱がせて顔に被せた。足首を縛っていたので黄娜の下着を脱がす事が出来なかったので右手を下着の中に入れた。そして、黄娜の膣か肛門かはわからないがとにかく穴に中指を入れた。多分、肛門だったと思うが、今思えば何故そんな事をしたのかわからない。しばらくして指を抜き、その指を見つめていた。まるで夢でも見ているような感じだった。その後、黄娜を見ると下半身からも血が流れており驚いた」

と語った。

これを聞いた警官は気分が悪くなり吐き気をもよおした。

だが、捜査と検死の結果、ハオが黄娜を全裸にした上で強姦し、口封じの為に首を絞め、叩いて踏みつけた事がわかり、陰惨な強姦殺人であると断定された。


2005年7月11日、トゥックの裁判が始まり、弁護士はトゥックが統合失調症を患っていると述べた。

そして、事件当時、トゥックは心神喪失であったと強調した。

だが、裁判官は
「被告は精神病の病歴もなく、殺害や死体の遺棄を計算の上で行った。被告は冷酷な殺人鬼である」
と痛烈に避難した。


そして、同年は8月27日、死刑が言い渡された。

トゥックの精神状態が非常に不安定で、裁判でも証言台に立てない程であった為、死刑は重過ぎるという声が多く上がったが、死刑が変更される事はなかった。


2006年11月3日、トゥックの絞首刑による死刑が執行された。

享年25歳。

この黄娜の事件は、後に色々物議を醸した。

黄娜の葬儀はまず、葬儀社の好意により無料で行われ、しかも、お金持ちの多額の香典を両親は受け取った。

また、黄娜には生命保険が掛けられていた為、両親は多額の保険金を手に入れた。

母親と継父はその大金をはたいて豪邸を建てた。

この両親の黄娜死後の行いをメディアがこぞって取り上げ、裕福な生活を送る夫妻に「黄娜の死で得た豪邸」だと非難した。



《殺人数》
1人


《犯行期間》
2004年10月10日




∽ 総評 ∽

顔見知りの少女を誘拐し、強姦して殺害したハオ。

供述を見る限り、ハオは典型的なペドフィリアといえるだろう。

もしかしたらもっと被害者は知られてないだけで多いかもしれない。

ハオは犯行時、普通に妻がおり子供がいた。

そんな人間が普段から少女に対して異常な執着と欲望を抱いているというのは恐ろしい限りである。

何故、1人の少女の為に他国に協力を要請するような大袈裟な事をしたかと疑問を抱く人もいるかもしれないが、シンガポールは非常に治安が良く、8歳が少女が行方不明となる事自体もかなり稀だったからだった。

黄娜の両親は黄娜の死後、多額の香典や保険金により豪邸を建て贅沢な暮らしをした為、非難を浴びた。

多額の香典を出したのはお金持ちの好意であり、黄娜の両親が頼んだわけではなく、また、保険金も殺されるとわかっていて掛けたわけでもない。

大金が手に入ったので家を建てただけの話であり、黄娜の両親にもちろん非はない。

ただ、この状況で非難を受けるのは致し方ない。

これだけ注目を浴びた事件なので、家族も注目されるのはしょうがなく、いくら自分達が頼んだわけではないといっても香典や保険金といったお金で豪邸を建てて良い思いされるわけがない。

事件とは関係ないのであえて掲載しなかったが、黄娜の母親はシンガポールへは元々不法入国であり、継父は過去に窃盗での逮捕歴があった。

その為、余計にメディアから人々から叩かれた。

慎ましい生活をあえて送れとは言わないが、常識の範囲内で生活を送る慎重さが必要であった。

両親も被害者遺族であり、非常に可哀想だと思うのだが、その後の生活のせいでそうは思えなくなってしまうのが残念である。