
リュドミラ・パヴリチェンコ (ロシア)
【1916 ~ 1974】
リュドミラ・ミハイロヴナ・パヴリチェンコは、1916年7月12日、帝政ロシア時のウクライナ・キエフ近郊で生まれた。
パヴリチェンコは子供の頃から人形遊びに興味を示さず、スリング (遠心力を利用した紐状の投石器) でスズメを撃つ事を好んだ。
パヴリチェンコ14歳の時、一家はキエフ市内に移り住んだ。
パヴリチェンコは9学年 (中学) を卒業すると、アーセナル工場の粉砕機を扱う仕事に就いた。
また、パヴリチェンコは働きながら勉学に励んだ。
1932年、パヴリチェンコはアレクセイ・パヴリチェンコと結婚し、息子ロスチスラフを生んだ。
しかし、パヴリチェンコは強制的に結婚生活を止めさせられた。
1937年、パヴリチェンコはキエフ大学に入学し、ライフルを扱う射撃競技に参加した。
そこでのパヴリチェンコの射撃の腕前は相当なものであった。
1941年、ドイツがソ連に宣戦を布告し、ドイツ、ルーマニア、ハンガリー、イタリアの連合軍がソ連に進行を開始する。
その事を知ったパヴリチェンコは、在学中にもかかわらず、進んで入隊を志願した。
しかも、パヴリチェンコは従軍看護婦ではなく、狙撃手として配属を希望したのだが、これは極めて珍しい事であった。
身体検査をクリアし、狙撃手適性試験も合格したパヴリチェンコは、女子志願兵として第25狙撃兵師団第54狙撃連帯に二等兵として配属される。
軍に入った後、射撃の訓練において非常に優秀な成績を挙げ、パヴリチェンコは正式な狙撃手として採用される。
そして、スコープを装着したモシン・ナガン (かのシモ・ヘイヘもモシン・ナガンを愛用したが、スコープは付けなかった) を与えられ、戦場に赴いた。
1941年8月、ソ連赤軍はドイツ軍の猛攻に遭い、撤退を余儀なくされる苦しい戦況が続いていた。
そんな中、パヴリチェンコはドイツ軍を食い止める為、オデッサの防衛任務に就いた。
パヴリチェンコは初めての戦闘で早くも2人を射殺する。
しかし、奮戦空しくパヴリチェンコら第25狙撃兵師団は後退を余儀なくされ、パヴリチェンコら狙撃手には本隊が後退するまでドイツ軍を食い止め、遅延させる事を命じられる。
これは本隊を無事後退させる為に死んで食い止めろという非情な指示でもあったが、パヴリチェンコらはドイツ軍の一般兵ではなく、指揮官や通信兵等を積極的に狙撃していった。
パヴリチェンコは枯草模様の装備をして自然に溶け込み、ドイツ軍の背後や側面を約700mもの距離から狙撃し、大いに成果を挙げた。
そして、オデッサ防衛戦でパヴリチェンコは、約2ヶ月という戦闘期間でドイツ兵の狙撃手10人以上を含む実に187人を射殺した。
この功績が認められ、パヴリチェンコは少尉に昇進した。
パヴリチェンコはこの頃から銃をモシン・ナガンからトカレフに変更したとされ、中距離射撃を得意としたパヴリチェンコには断然扱い易い銃であった。
その後、パヴリチェンコはオデッサを脱出し、艦隊戦で激戦が繰り広げられていたクリミア半島セヴァストポリに派遣された。
ここでもオデッサ同様、ドイツ軍に囲まれ防衛戦が展開されたが、パヴリチェンコが得意としたカウンター射撃が冴え渡り、多くのドイツ兵を射殺した。
1942年5月、パヴリチェンコは中尉に昇進し、この時点での射殺数は257人に上った。
しかし、ドイツ軍のセヴァストポリ包囲網を一旦は打破したソ連軍であったが、ドイツ軍の反撃に遭い再び包囲されてしまう。
同年6月、ドイツ軍の大砲の砲撃に晒され、パヴリチェンコも砲撃による破片により負傷し、病院に搬送された。
その後、セヴァストポリはドイツ軍によって陥落した。
パヴリチェンコは約1ヶ月の治療の末、退院し、北コーカサスに侵攻して来たドイツ軍を迎え撃つべく、前線に立って狙撃を続けた。
しかし、この時、パヴリチェンコの名はソ連に知れ渡っており、彼女を失う事を恐れた軍上層部の命令により、パヴリチェンコは女子狙撃教育隊の教官に任命され、前線から離れる事となる。
ただ、パヴリチェンコはソ連軍の戦闘機がドイツ人の少年を撃ち殺すのを目の当たりにし、この頃には考え方が変わっていた。
「幸せな少年が私の目の前で無惨に殺されてしまった。以来、何かが私を変えた」
と後に語っており、パヴリチェンコ自身も前線から身を引く事に抵抗はなかった。
結局、在任のまま第二次世界大戦は終了した為、パヴリチェンコの戦争は終わった。
結局、パヴリチェンコはドイツ兵309人 (正式な数は不明だが、公式的にはこの数とされる) を射殺した (その内、36人は狙撃手であった) 。
ただ、パヴリチェンコは「ドイツ兵は苦しむべし」という考え方を持っており、わざと急所を外し、相手を苦しめた行為は非難の的となった。
その非情さからパヴリチェンコは『死の貴婦人』と呼ばれ恐れられた。
パヴリチェンコは少佐に昇進し、同盟国のアメリカへ外交として赴いた。
パヴリチェンコはソ連人として初めてホワイトハウスで当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルト会った。
また、パヴリチェンコはルーズヴェルト大統領夫人と全米を渡り、各地でスピーチを行った。
アメリカ海兵隊の訓練基地では、狙撃手養成の為の講義を行った。
1943年、パヴリチェンコは帰国し、英雄賞を受賞し、肖像が切手に使われた。
その後、パヴリチェンコは再び女子狙撃教育隊の教官となった。
1945年、終戦後にパヴリチェンコは軍を除隊し、キエフ大学に復学した。
大学卒業後は海軍司令部の戦史課に就職し、1953年まで助手として戦史編纂に携わった。
1974年10月27日、パヴリチェンコは死去する。
享年58歳であった。
ソ連赤軍は2000人以上の女性狙撃手を登用し、前線に送り込んだが、パヴリチェンコは中でも群を抜く射殺数を記録した。
最後に射撃について語ったパヴリチェンコの言葉で終わりたいと思います。
「私の仕事は理論的に人を撃つ事だが、想像と実際に行うとでは全く違う」
【射殺数】
309人
【期間】
1941年8月~1942年7月
∽ 総評 ∽
女性狙撃手として309人ものドイツ兵を射殺したパヴリチェンコ。
パヴリチェンコはドイツ兵を徹底的に嫌っており、ドイツ兵には何をしても構わないという考え方が根底にあり、射殺出来るにも関わらず、わざと急所を外し、相手が苦しんで死んでいくのを見届け弄ぶという非情で冷酷な狙撃を行った。
女性のスナイパーというのはあまり知られていないが実は意外に多く、実際は男性よりも多いと言われる。
ただ、殺害数が少ない為、男性のスナイパーばかり目立っているのだろう。
ただし、中でもこのパヴリチェンコは別格で、公式の記録として300人を射殺した唯一の女性狙撃手であった。
また、公式的に記録される中で、射殺数歴代10傑に女性として唯一ランクインしている。
パヴリチェンコは狙撃手を相手としたカウンター射撃を得意とし、実に狙撃手36人を葬った。
これは逆に相手の狙撃手に返り討ちに遭うリスクも高く、かなり危険な狙撃でもあった。
そういった部分でもパヴリチェンコの射撃は高精度で特殊であり、難易度がかなり高い方だと思われる。
以前紹介した張桃芳や最多射殺記録保持者のシモ・ヘイヘは、射撃の腕前は訓練の成果だと述べているが、パヴリチェンコは射撃の向上の為の特別な訓練を行っていたという様子はなかった (詳細がないだけで実際はかなりの訓練をしていたのかもしれないが) 。
パヴリチェンコは実力はもちろんだが、その端麗な容姿と相まって狙撃手の中でもその存在は一際異彩を放っている。
コメント
コメント一覧
でもこの考えが当然と思える世の中もすごく怖いね。
話は変わるけど、ISIS奪還戦で殉職したイラク軍スナイパー、アブー・タルシン・サルヒの掲載をお願いします。
サルヒは中東戦争から殉職する2017年までスナイパー1筋で生きていました。
殉職するまでに170人以上殺しています。
彼の生き方がいかにもスナイパーらしいので掲載していただけたら嬉しいです。
今回は犠牲者数こそ多いものの、私利私欲に走る快楽殺人者ではなかった為それほど嫌な気分にならず読めました。
確かにそうですね。
そういう風に言われて戦場に立たせているので仕方ないですね。
ただ、基本的にはただ射殺すればいい所をわざわざ急所を外す所は残酷だと言われてもしょうがないですね。
知らないスナイパーですね。
今度調べて見たいと思います。
>悪趣味レディさん
一説では女性の方が多いとも言われています (おそらく男性より的確に冷静に実行できるからだと思われる) 。
仰る通り私利私欲の快楽殺人鬼とは違いますが、これだけ射殺するって恐ろしいですね。
男性兵士が残酷に敵兵を殺害しても称揚される事はあっても非難は皆無です。
狙撃兵は高い建物を狙撃場所を選ぶ人が多く、狙撃位置を特定され易いです。
※狙撃兵は戦場で惨殺される事が多いです。
リュドミラ・パヴリチェンコは枯草模様偽装をしている事から平地に潜んでいたのでしょう。
戦争に従軍した人達を非難する人達は多いですが、自称・人格者の言動の方が凶悪犯罪者に近い気がします。
個人的には普通に狙って射殺出来る力があるのにわざわざ急所を外した所だと思います。
戦争に従軍するのは強制でないにしろ仕方ない事ですし、基本的に誰も戦争に行きたくないですし、人なんか殺したくないでしょう。
仰る通り私利私欲で快楽で犯罪を犯す人間の方がたちが悪いです。
しかし戦場でたくさん兵隊を殺した軍人の支援は減らせと言っておいて平時にさんざん人の命をもてあそんだ凶悪犯にはもっと支援しろという自称「人権派」のダブルスタンダードは気分が悪くなります。
明日もよろしくお願いします。
自身の軍隊どいえど信頼していないという事でしょうか。
仰る通りわけがわからくて不気味ですね。
>美香さん
確かにそうですね。
凶悪犯は自分が被害にでも遭わない限り考え方を改めるのは無理でしょうね。
こちらこそよろしくお願い致します。
ソ連当時はっていうか何処の国でも自分達の正義と相手の悪を宣伝しまくってましたからね。そういう思想に陥るのはむしろ必然だと思います。
相手を殺さないのも狙撃手としてのテクニックの1つ。スナイパーの存在を知らせ、歩兵部隊の足止めをするのが1つ。戦争は殺すよりも負傷の方がはるかにめんどくさい事になるので、戦力を削ぐ効果もあり、戦術としては有効なんですよ。まぁ、怨み辛みはあったでしょうが、自国の虐殺行為を観て考え方が変わったのを見ると、マトモな人だったと言えます。
なるほど逆に安全なんですね。
なかなか深い話ですね。
私は全く詳しくないので勉強になります。
殺さず凄腕のスナイパーの存在を知らしめ、しかも、負傷者を救護する大変さで戦力を削るというのは考えもしなかったですね。
いやー戦争って恐ろしいですね。
初めて知りました
シモ・ヘイヘが有名過ぎて他のスナイパーに関しては知らない人は多いと思います。
足止め効果高いのに
残虐云々は完全なお門違い
戦争なので残酷というのはお門違いだと思いますが、そのように言われたようです。
私は詳しくないのでわかりませんが、わざと急所を外すというのは基本なんですね。
恐ろしい話ですね。
この人が教えてたのと同じかどうか、狙撃学校を修了した女性狙撃兵部隊の話は読んだことがある。
狙撃兵同士でペアを組むんだけど、絆は強くて、ある狙撃兵はペアを狙撃されて喪い、陽が暮れるまで泣いてたというのが印象的だった。
その人はペアのお墓が戦後故郷に移築されたことも知っていた。
あと初陣が大雪で、敵味方どちらも塹壕の雪かきに必死だったとか、敵兵が雪かきで無防備でも、やはり人を撃つのを躊躇したり・・・
仲間の女性狙撃兵が攻めてきた敵に拉致されて、皆殺されてしまったり・・・
さもありなん、というか、示唆に富むというか、諸行無常というか・・・
そうなんですね。
勉強になります。
亡くなった祖父が生前戦争の話をよくしてくれました。
朝一緒にご飯を食べた戦友が隣で撃たれて死に、その死体を盾にして前進したと。
どんなに年をとっても鮮明に覚えていて話をしてくれました。
子供の頃、それが鬱陶しくて話をよくはがらかしてましたが、今思えばもっと聞いておけばよかったと思います。
即死させられる位置まで何日も腹這いで移動して、
即死させられるタイミングまで何日だって待つ
無駄な行動は一切しない
軍隊っていう効率化のために最適化された様な集団の中でもさらに異様なほど効率化された兵種が狙撃手
アメリカ軍によれば「足止め目的で」狙撃された一般兵は意外にも生存率が高いらしい
手足周辺を狙うからとも言われてるけど、狙撃された友軍がすぐに手当して後送するからってのが大きいとか
狙撃兵が大活躍したから指揮官から新兵まで皆の服装を統一する羽目になったって話もある
それは狙撃の有用性が全世界に認められたから
任務にもよるけどおよそ普通の人間には不可能な事をするのが狙撃手ってポジション
敵を倒すのは勿論、自分の身も守らなきゃならないし、戦友や部隊、軍、祖国を「最低限の人数で」守らなきゃならない
そもそも戦争という非日常の中で日常の感覚でしかない「残虐なんて言葉は無意味だし戦った「人間」を否定してる
ベトナムで死ぬ思いをして祖国に戻った人間に罵詈雑言を投げつけた「部外者」と同じような「日常を生き延びさせて貰った」人間か、「その時」非日常を暮らしてた敵対する国の人間によって作られた憎しみの言葉でしかない
敵だった人間に言われるならまだしも、自分や戦友、祖国を守った結果が「残虐」なんてこれ以上ない残虐な言葉だよ
この人は捕虜を何百何千と不当に拷問して殺したわけでもないのに
でもサイトとして取り上げるには興味深いし良いと思う
戦争の糞みたいな面の一つだからね
戦争で英雄を作り上げるなんて当たり前だし、戦果の報告なんて後でいくらでもなるんで
まして今回の場合はソ連側だから…
最近でもイラク戦争で激戦になって何人が戦死したーとか言われてた所で戦闘らしい戦闘なんて起こってないとか普通にあります
「何も知らない一般人がたまたま居合わせて運悪く巻き込まれて亡くなった」とかも戦死者に数えられたりします
戦争の被害者数はいつだって実際より多くなる傾向にあるんです
Aからしたら「沢山倒した!」で士気向上になるし予算ももらえる
Bからしたら「これだけ殺された!」で国際社会に訴えられるし憎しみからの士気向上にもなるんです
これも戦争の糞みたいな一面
私は全く詳しくないので非常に勉強になります。
私のブログは『世界の猟奇殺人者』なのでこういった人物を取り上げる事自体間違えていると言われる事も多いです。
なので、そういって頂けると嬉しいです。
仰る通り公式の記録といっても何とも言えませんよね。
過大評価する事はあっても過小評価する事はまずないですからね。
私も同意見です。
射殺自体は戦争なので当然だし当たり前です。
ただ、苦しませる必要はないと思いました。
けど、他の方の意見を聞きますと、戦争としては当然のようです。
死なない程度に苦しませ、他の兵士に助けさせる事で軍力を低下させる。
全く考えもつきませんでしたが言われてみれば確かにそうですね。