ケネス・グランビール (アメリカ)
【1950 ~ 1996】
ケネス・グランビールは、1950年8月4日、アメリカ・テキサス州タラント郡で生まれた。
1974年10月7日、グランビールはテキサス州フォートワースにあるアパートに侵入し、マーサ・マクレンドン (♀) とリンダ・マクレンドン (♀) 、ナターシャ・マクレンドン (2歳♀) 、ローラ・マクレンドン (♀) とその息子スティーブン (3歳) を殺害する。
グランビールの凶器は肉屋の包丁であり、犠牲者は全員滅多刺しであった。
1975年2月8日、グランビールはナターシャ殺害で逮捕された。
逮捕されたグランビールはマクレンドン一家殺害を認めたが、グランビールはマクレンドン一家の知人である事がわかった。
また、逮捕されたグランビールは、拘留中に他に2人の女性殺害を自白する。
1人はベティ・ウィリアムズ (♀) で、もう1人はヴェラ・ヒル (♀) であった。
2人はグランビールに強姦され、ナイフで刺されて殺害された。
グランビールはウィリアムズとヒルの死体を捨てた場所を告げ、実際調べると2人の死体が発見された。
1975年11月、グランビールには有罪判決が下され、その後、死刑が言い渡された。
アメリカでは1972年6月に、違憲という理由で死刑が廃止され、1976年に再導入されるまで4年間全米で死刑が廃止されていた。
その為、グランビールはテキサス州において死刑が復活して最初に死刑が執行される人物となる予定であった。
1977年9月にグランビールの死刑が執行される予定であったが、弁護士が反対した為、執行が延期された。
1996年2月27日、致死量の注射による死刑が執行された。
享年45歳。
グランビールは最後の言葉を促されたが断った。
結局、グランビールの死刑は約20年延期された事になったが、これは当時、テキサス州において最も長く刑務所にいた死刑囚であった。
【殺人数】
7人
【犯行期間】
1974年10月7日~1975年
∽ 総評 ∽
7人の女性と幼児を殺害したグランビール。
グランビールの特殊な所は、殺害したのが全員知り合いという所だ。
通常、シリアルキラーは知人を標的とするのは少ない。
グランビールは殺人以外の記載が少なく、どのような幼少期や人生を送ってきたのか全くわからない。
また、殺害動機も不明であった。
本人はすでに処刑されているので、今後判明する事はないが、何か消化不良の感が残る事件である。
コメント
コメント一覧 (8)
全米での過去40年間の死刑執行数の約37%を占めるそうです。
逆に言うと、他の死刑存続州は死刑の執行に消極的なのです。
テキサスは死刑囚の執行率が半分を超えており、執行数がダントツで多いです。
(全米での執行率は2割弱です。)
殺人件数も共に多いです。
アメリカでは死刑囚が2,843人おり、
強固で頑丈な牢屋の確保に苦労しているようですね。
単なる嘘臭い弁護士が凶悪犯罪者を擁護する為に利用する妄言に過ぎません!
薬物中毒者を除き、正常な心体の人間と比べると犯罪発生率は低いのです。
つまり全く、薬物中毒者以外は犯罪に寄与する要因が無いと言っても過言ではありません。
つまり凶悪犯罪者は自らの欲望に忠実な獣と同じなのです。
人権を与えたり、人間扱いする方がオカシイと考えます。
熊や野犬が人間を襲い殺害したら如何に対処しているでしょうか?速やかに駆除です!!
今回の糞な鬼畜は20年も無駄に税金で生き永らえています。
7人もの人間を欲望によって蹂躙したのに20年も税金で養ったのが理不尽と感じない人間や社会の方が異常です。
「犯罪者にも人権がある」此を最初に叫んだ人間は歴史上、最も理不尽で自分に陶酔した狂った偽善者だと断言します。
仰る通り現在、アメリカの死刑の大半はテキサス州で行われていますね。
個人的には何か死刑をテキサス州に押し付けているような気がします。
アメリカは死刑がある州とない州があるので、非常に参考になります。
そこでわかる事は、死刑がある州とない州で凶悪事件の件数がそれほど変わらないこと。
死刑廃止論者はその事を棚に上げ「厳罰にしても変わらない」と言いますが、凶悪犯というのは死刑があろうがなかろうが関係ないという事なので、変わらないのであれば死刑を存置すればいいと思うのですが。
>考える愚者さん
もちろん理由にならないですね。
起こした犯罪が全てで、過去に何があろうが全く関係ありません。
強盗や強姦は論外ですが、殺人に関しては酌量の余地がある場合があると思います (虐待した相手を殺害等) 。
弁護士の存在ってよくわからないですね。
個人的に弁護士は被害者側にはいていいですが、加害者側には必要ないと思います。
やった犯罪は事実であり、弁護の余地などないからです。
凶悪犯罪者に人権や擁護する人って本気でそう思っているんでしょうか?
人権というのは皆が平等に持っているものではなく、人間らしい生活を送っている人間に与えられるものであり、凶悪犯にはありません。
あと、「罪を憎んで人を憎まず」と言った人間も偽善者ですね。
確かに自分の大切な妻や子供が殺されたら、そう思うと思います。
その相手を自分の手で殺してやりたくなるでしょう。
それでも、何故殺してはいけないのか?
これは理屈ではないんですよね。
サイコパスのような「不幸せな遺伝子の連鎖」を除けば、
善人も悪人も、生まれた直後は同じ所にいます。
白か黒か、人間という生き物は理屈では割り切れないと思います。
しかし善人も悪人も、罰がなければどこまでも堕落してしまうのが、
法が存在する由縁なのだと思います。
では、人間社会のルールを外れた者は、本人の責任か、社会の責任か?
或いは、悪人はどこまで修正が効くのか?
歪んだ道徳心を持つ死刑反対派がいる事は、このサイトで知りましたが、
死刑の在り方を求めたら、ここに行き着くのではないでしょうか。
まあ永山事件を挙げると、永山は判決を受け入れて処刑されたというより、
弁護士や支援者によって「自分は特別で素晴らしい人間だ」と、
勘違いして陶酔していた感じはしますが…。
僕としては、犯罪や汚職がなければ弁護士が食べていけないので、
社会が犯罪を助長していると思います。
刑罰を抑止力と考えるなら、違和感を覚えるものがあります。
司法も法政も、特権階級が動かしている所が強いですからね。
これは健全な民主主義とは言えません。
ジョン・レノンも最期は殺されてしまいましたが、
「イマジン」の中では結構いい事を言っていましたね。
死刑を反対している人は所詮他人事なんです。
自分の子供が無惨に殺されて、それでも死刑はダメだと言うのか?
絶対に言わないと思います (実際そうならないとわからないので、口だけでは言うかもしれませんが) 。
確かにそうですね。
弁護士は弁護する仕事であり、真っ当な正義に対して弁護する事は何一つないので、弁護する相手は必然的にマイナスの立場は状況の相手となります。
仰る通り一部の権力者によって世の中は支配されており、これは真の民主主義とは言えません。
結局は民主主義という名前を使った独裁と基本的には何ら変わりはないと言えますね。
当然ながら長期間の凄惨な拷問の末の死刑はセットにさせる。
これがあっても何も解決するわけでもないし、犯罪が減るわけでもありません
しかし「人情的な判決」を優先するのなら絶対になければならないのです!
私もそう思いますね。
私は被害者や遺族が処刑する事で少しは救われるのならばそれだけでいいと思います。