J.C.X. サイモン (アメリカ)
【 1945 ~ 2015 】
マヌエル・ムーア (アメリカ)
【 1944 ~ 】
ラリー・グリーン (アメリカ)
【 1951 ~ 】
ジェシー・クック (アメリカ)
【 1944 ~ 2021 】
1973年10月19日、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコで、リチャード・ハーグ (30歳♂) とその妻クイータが拉致される。
ハーグ夫妻は道を歩いている所を男性2人にバンに引き摺り込まれ、クイータは1人に愛撫された。
そして、マチェーテ (中南米で用いられる大型の山刀) でリチャードを切りつけ、車から捨てた (リチャードは怪我を負ったものの助かった) 。
その後、クイータの首をマチェーテで切って殺害した。
クイータの死体が発見された時、首と胴体は3分の1でかろうじて繋がっている状態であった。
同年10月29日、カリフォルニア大学入り口に車で乗り付けたフランシス・ローズ (28歳♀) は、男性に車の行く手を阻まれ、車を要求される。
ローズは車から降りると男性はローズに発砲し、車を奪って逃走した。
ローズは銃弾が命中したが、一命は取り留めた。
同年11月9日、ガス会社の職員ロバート・ストークマン (26歳♂) が襲われる。
しかし、相手から銃を奪い、反撃すると相手は逃走した。
同年11月25日、サミー・エラカット (53歳♂) が、食料品店の洗面所で縛られ、射殺されているのを発見される。
エラカットはアラブ・イスラム教徒のヨルダン人であった。
同年12月11日、ポール・ダンニック (26歳♂) が公衆電話で電話を掛けようとしている所を3発撃たれて射殺された。
ダンニックはアーティストであった。
2日後の同年12月13日夕方、後にサンフランシスコ市長となるアート・アグノス (35歳♂) は、サンフランシスコ郊外のポトレロ・ヒルで行われた会議に出席した。
アグノスはカリフォルニア州高齢化委員会のメンバーであり、この日は健康クリニックを政府資金によって地域 (黒人が多く住む地域) への保険医療施設の建設について議論していた。
会議が終わり、アグノスは外で女性2人と話をしていた。
すると、アグノスは背中から2度撃たれた。
アグノスは重傷は負ったものの、一命は取り留め助かった。
同日の夕方、マリエッタ・ディジロラモ (31歳♀) が、ディビサデロ通りを歩いていた所、見知らぬ男性に突然殴られた。
そして、胸を2発撃たれ射殺された。
同年12月20日、アンジェラ・ロゼッリ (20歳♀、本名ではない) が、自身のアパートの近くで2人の男性に3発撃たれる。
ロゼッリは一命は取り留めたが、弾丸の1つが背骨を傷つけ重傷を負った。
同日の夕方、ベイ・ビュー地区でイラリオ・ベルトゥッチョ (81歳♂) が、職場から歩いて帰宅している所を突然撃たれ射殺される。
ベルトゥッチョは肩と胸を4発撃たれ、ほぼ即死であった。
同年12月22日、買い物中のニール・モイニハン (19歳♂) が、撃たれて射殺される。
目撃者によると、モイニハンの前を歩いていた男性が振り返り、突如、モイニハンの顔や首を撃ったという。
モイニハン殺害の6分以内に、ミルドレッド・ホスラー (50歳♀) が、4発撃たれ射殺される。
モイニハンを撃った男性とホスラーを撃った男性は別人であった。
同年12月24日、ジョン・ドゥ (アメリカでは身元が確認出来ない男性をこう呼ぶ) が殺害される。
同年12月28日、この日、幾度もの発砲事件が発生する。
1人目は道を歩いていたタナ・スミス (32歳♀) で、スミスは射殺された。
2人目はヴィンセント・ウォリン (69歳♀) で、ウォリンは家に帰った所を撃たれ殺害された。
3人目はジョン・ボンビック (84歳♂) で、ボンビックは捨てられた缶やボトルを拾っていた所、撃たれて射殺された。
4人目はジェーン・ホリー (45歳♀) で、ホリーはコインランドリーで洗濯している所を射殺された。
5人目はロクサム・マクミリアン (23歳♂) で、マクミリアンは引っ越ししたアパートに荷物を運んでいる所を撃たれた。
マクミリアンは一命を取り留めたが、銃弾は脊髄を損傷し、一生車椅子での生活を余儀なくされた。
6人目はトーマス・ベイツ (♂) で、エメリービル近くでヒッチハイクしていた所を撃たれた。
ベイツは3発撃たれだが、一命は取り留めた。
この頃、約2ヶ月の間で発生していた連続銃撃事件に、サンフランシスコはパニックとなっていた。
市民は夜に出掛ける事を避け、外出をなるべく控えるようになった。
また、事件が解決しない事に対する警察への不信感が高まり、自身を守る為に銃を購入する人が増加した。
警察は無差別に繰り返される連続銃撃事件に頭を悩まし、動機や共通点が見出だせない為、犯人を逮捕する事が容易に出来なかった。
ただ、共通のパターンがある事に気付き、それは犯人は複数で、犯人は被害者に歩いて近づき、撃ってすぐに走って逃走していた。
また、全ての銃撃で使用された銃は32口径の銃であり、犯人たちが好んで使用していた事が伺えた。
この結果を受け、サンフランシスコ警察署長ドナルド・スコットは、ガス・コアリス刑事とジョン・フォティノス刑事による特別チームを編成させ、事件専用の警察無線周波数を「Z」に指定した。
この「Z」は一般的に「Zebra (ゼブラ:しまうま) 」として知られており、この特別チームはゼブラ特別部隊と呼ばれるようになる。
また、犯人たちは『Zebra murders』または『The Zebra Killings』と呼ばれるようになった。
1974年4月1日、救助訓練センターに通う救命士候補のトーマス・レインウォーター (19歳♂) とリンダ・ストーリー (21歳♀) が、メイフェア・マーケットに向かって歩いていると、2人を歩いて追い越した黒人男性が2人の方へ振り返り、4発発砲して逃走した。
この銃撃でレインウォーターが死亡した。
警察は銃撃からわずか15秒以内に現場に到着した為、すぐに捜索を開始した。
だが、結局、犯人を見つける事が出来なかった。
当初、警察はこの事件を『Zebra murders』によるものだと思っていなかったが (アメリカではそもそも銃撃事件が多く、しかも、以前の集中的な銃撃事件から4ヶ月経っていた為) 、発見されたシェルケーシングが32口径の銃のものである事が判明し、再び『Zebra murders』が襲ったとされた。
同年4月13日、バス停でバスを待っていた船員ウォード・アンダーソン (♂) と学生のテリー・ホワイト (15歳♂) の下に黒人男性が歩いて近づき、突然発砲してその場を去った。
2人は負傷したものの無事であった。
同年4月16日夕方、ネルソン・シールズ (23歳♂) が射殺される。
目撃者はヴァーノン・ストリートを走って行く黒人を目撃したと後に語った。
警察が現場を調べると32口径のシェルケーシングであると判明し、『Zebra murders』による殺人とされた。
この『Zebra murders』が暗躍してからサンフランシスコは市民だけではない重大な事が起きていた。
事件が解決しない間、サンフランシスコを訪れる観光客が激減し、経済的にも致命的な大打撃を受けた。
朝まで人で賑わうノースビーチも、暗くなると誰もいなくなった。
警察は目撃情報から犯人像を割り出し、2つのスケッチを描いて警察署内とメディアに配布した。
サンフランシスコ市長ジョセフ・アリオトとサンフランシスコ警察署長スコットは、犯人に似ているサンフランシスコに住む多数の黒人市民に積極的に詰問していくと発表する。
警察が目撃情報でいわれる「背の低い狭い顎の黒人男性」がいた場合、強制的に足を止めてチェックし、白と判断されるまで拘束出来る事となった。
チェックされた黒人には印刷された「Zebra Checkカード」なる物が渡された。
こうして最初の週末までに500人の黒人の男性がチェックされた。
このやり方に黒人社会から
「人種差別的でしかも非生産的である」
として非難が起こった。
そして、このプロファイリング方法は違憲とされ、後に判事がそれを承認した為、中止となった。
『Zebra murders』逮捕に繋がる有力な情報提供者には3万ドル (約750万円) の報奨金を支払うと発表する。
その後、警察は連続銃撃事件にアンソニー・ハリスという黒人男性が関与しているという情報を入手し、ハリスに事情を聞く。
ハリスは犯罪を行っていたグループを知っていると話し、その詳細を話した。
すると、警察が認知していない事件もグループによる犯行だと述べた。
しかし、ハリスは犯行には一切関与していないと述べた。
それは1973年12月24日に発見された氏名不詳の男性であり、グループは男性を倉庫に連れて行くと縛り、凄惨な暴行を加えた。
そして、まだ意識があるうちに手足をバラバラにし、海に死体を捨てたとハリスが語った。
犯行グループはJ.C.X. サイモン、マヌエル・ムーア、ラリー・クレイグ・グリーン、ジェシー・リー・クックの黒人4人だとハリスは述べた。
そもそもハリスがその4人と出会ったのは、1971年にハリスがロサンゼルスで2度目の逮捕 (強盗) でサン・クエンティン刑務所に入った時、まずムーアとクックと出会う。
ムーアもクックもそれぞれ強盗で有罪判決を受け、刑務所に入っていた。
そして、ムーアとクックはカンフーをやっていたハリスに武道を教わる。
ハリスは独創的なイスラム教徒であり、黒人の分離主義と優位性を説いたエリヤ・ムハンマドの教えを2人に説いた。
ハリスは
「白人は文字通り悪の化身であり、彼等は『青い目の悪魔』だ」
と説いた。
1973年10月15日、ハリスはサンフランシスコに移動し、そこでグリーンと出会い、更にサイモンと出会い、教えを説いた。
クックは3ヶ月前の7月にすでに出所しており、11月に釈放されたムーアに続いてサンフランシスコに向かった。
そして、サンフランシスコにあるサイモンのアパートで4人は出会った。
また、他に12、3人のイスラム教徒たちとも出会った。
同年5月1日夜明け頃、ハリスから住所を聞いた警察が、844グローブ通りにあるアパートに向かい、そこにいたサイモンとグリーンを逮捕した。
そして、その日の内にムーアとクックも逮捕され、更に関与しているとして他に7人逮捕された (その内4人は証拠がない為、釈放されている) 。
逮捕された時、誰も一切の抵抗を示さず、素直に逮捕された。
結局、4人による犠牲者は全部で15人となり、負傷者は8人から10人とされた。
ただ、警察当局によると、4人による犠牲者は73人以上に上るとした。
アリオト市長は事件解決を受け、サイモンらは自らを『Death Angels (死の天使たち) 』と名乗っていたと発表した。
サンフランシスコのモスク (イスラム教寺院) の黒人ムスリム指導者ジョン・ムハンマドは、今回の事件とは何の関係もないと述べた (しかし、クックを除き他の3人の弁護士費用を全て負担している) 。
1975年3月3日、サイモンらの裁判が始まった。
ハリスは証言台に立ち、4人の関係性や事件の事など詳細に語った。
4人への証書は合計で8800ページに及び、4人の裁判は当時、カリフォルニア州において最長を記録した。
1976年、18時間による審議の末、4人には終身刑が言い渡された。
2015年3月12日、サン・クエンティン刑務所でサイモンが死去する。
享年69歳。
サイモンは仮釈放の可能性がある終身刑であったが、仮釈放される事なく、約40年の刑務所生活を送った末の死であった。
尚、死因は不明であった。
2021年6月30日早朝、カリフォルニア医療施設で死亡しているクックが発見された。
享年76歳。
《殺人数》
15人 (73人以上の可能性あり)
《犯行期間》
1973年10月19日~1974年4月16日
∽ 総評 ∽
『Zebra murders』または『The Zebra Killings』と呼ばれ白人ばかり15人を殺害したサイモンら4人。
4人による犯行は白人を憎む一部の過激なイスラムの教えによる犯行であった。
典型的なヘイトクライム (憎悪犯罪) と呼べるが、逆 (白人→黒人) もしかりそれほど珍しいという事はない。
ただ、複数で短期間の内にこれほど過激に実行するというのはそうある事ではない。
サイモンらによる犠牲者は全部で15人であったが、当局は73人以上に上るとしていた。
確かにサイモンらは1973年の年末までにハイペースで犯行に及んでいたにも関わらず、1974年4月までの約4ヶ月間、わかっている範囲では犯行を犯していない。
逮捕されているわけでもないのにこの空白の4ヶ月間は理解出来ず、わかっていないその間に犯行を行っていると考えれば73人以上というのもあながち大袈裟な数字ではないだろう。
この『Zebra murders』が犯した事件は、多くの被害者を生んだだけではない。
サンフランシスコを訪れる観光客が激減した事により経済的に大打撃を与えた。
そういう意味ではこの犯人たちが犯した罪は人殺し以上に重い。
コメント
コメント一覧 (13)
そして犯人が黒人である事が殆ど明白であるのにしらみ潰しに拘束する事案を「人種差別」と叫び中止に追い込む姿勢を観ると内心で犯人を英雄視していた可能性があります。
※黒人社会の姿勢が余計、人種差別を誘発させていると私は感じます。
黒人イスラム教も事件に関わっていると私は(恐らく記事を読んだ皆さんも)思います。
そうでなければ裁判費用を負担したりしないでしょう。
※歪んだ"優位主義"宗教は必ず争いを呼び込むと私は思います。
犠牲者は恐らく73人どころでは無いと思いますね。
これ程、非常利に生命を軽視しているので隠れた犯罪があると思います。
それにしても無差別殺人なのに終身刑は甘過ぎでしょう!
卑劣で下劣なグループですね。
仰る通りですね。
差別という意味を完全に履き違えていますよ。
これ程の凶悪な犯行に及んだ事から歪んだ宗教精神による可能性が高いと思います。
私ももっと被害者が多かったのではと思います。
厄介極まりない、話がまず出来ないのだから
宗教的で思い出しましたが、アメリカでは最悪の宗教的事件があったのを思い出しました
セイラム魔女裁判と呼ばれる物です
集団ヒステリーが町一個を飲み込んだ事例です
十七世紀の事件と言うこともありますが、酷すぎて笑えて来ます
そうですね。
最近たまたま区切りが良くなってますね。
人種差別を過度に掲げる人は人種差別をする可能性も高まります。
死刑にならなかったのはやはり黒人社会からの反発を恐れた為かも知れないですね。
>RAさん
宗教的な部分はありますね。
そんな凄い事件があったのですね。
町1つって規模が違いますね。
今度調べてみます。
組織的に行われたヘイトクライムで、大量の犠牲者を出していますが、
日本では本当に凄惨な事件や人種差別の絡んだ事件は、
取り上げる事を忌避する傾向にあるようです。
日米は地理的には離れているとは言え、対岸の火事では済まされません。
ロスで起こったOJシンプソン事件は、
殺人事件が人種差別問題に持ち込まれた大事件だったようですね。
2人を殺害したシンプソンは、刑事裁判では無罪、
民事裁判では有罪という奇妙な結末となりました。
人種問題は収束する事なく広がり続け、世界では白人・黒人・アラブ人と、
三つ巴の戦争になっている状況です。
僕の伯父は左翼系の活動家ですが、日本が集団的自衛権を行使する事によって、
こうした戦争や紛争に巻き込まれる事を恐れていました。
実際、暮らしに追われている人は考える余裕もないのは確かですが、
日本はもう少し危機感を持つべきだと思います。
これほどの被害者数の割にそれほど有名な事件ではないですね。
まあこの頃アメリカは他に凶悪な連続殺人事件が多発していたので、陰が薄くなったのかもしれません。
確かに日本は危機感は低いですね。
それほど平和だと言えばそれまでですが、交通事故と一緒で、いくらこちらが安全運転していても突っ込んで来たらアウトですからね。
まったくそのとおりですね
私の意見の何に賛同していただいているかわかりませんが、ありがとうございます。
この時代にはきっとゾディアックやバンディ、先日亡くなったチャールズ・マンソンなどもっとインパクトがある殺人犯や殺人事件がいっぱいだね。
しかもその後もロス暴動などのインパクトのある事件がいっぱいあったから自然と扱いが小さくなっていったのかもしれない
日本ではほとんど知られていない事件ですね。
仰る通りこの時代は他に衝撃的で有名な事件が多過ぎた為に影に隠れてしまったんだと思います。
個人的にはこのように日本では余り知られていない事件を中心に掲載するようにしています。
暴力を受けた青年は知的しょうがいを持っており、統合失調症をわずらっていました
彼らはたまにずれた質問をしたり、人を怒らせるような発言をしたり、空気が読めなかったりする場合が多いので他の人よりも悶着を起こすことも少なくなくはないでしょう。
私も彼らと同じ問題でたまに人を怒らせたり、こだわりが強すぎて人とたまに悶着を起こしたこともありましたが、訓練や投薬、周りへの配慮やしょうがいの理解などでこの問題は解決できました。
しかしこの4人組は必要な努力を怠り、ただ「むかつく」という理由で暴力を加えたのです。
4人組は通報後逃げましたが、警察がしっかり捜査したことですぐに逮捕することができました。
しかも、お医者さんがきちんと治療を行ってくれたので青年を助けることができました。
警察と医療機関のおかげで青年を助けることができたのはすごくうれしいです。
日本ではあまり知られていませんが、知的障害者への迫害を知ってもらうこととしっかりした対応がたくさんの命を救うことができることを考えて掲載してくれたらすごくうれしいです
なかなか衝撃的な事件ですね。
気になる事件なので今度調べてみます。