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ジョン・ゲイシー (アメリカ)
【 1942 ~ 1994 】



訓練校では優秀な成績を修めたゲイシーは、教師から助手として事務室で働くよう言われる。

また、この頃からゲイシーは民主党立候補議員を応援するようになるのだが、これはスタンリーが気に入っている議員であった。

この頃にはゲイシーとスタンリーの関係は改善されつつあった。

だが、スタンリーはゲイシーが兵役の際 (当時アメリカではまだ兵役義務があった) に病気により免除されたと知ると、スタンリーは再びゲイシーをオカマ呼ばわりするようになる。

ゲイシー18歳の時、ガールフレンドが出来、性行為に及ぼうとするも、直後に気を失ってしまう。

気がつくとガールフレンドは服を着て去って行ったが、この事にゲイシーは相当なショックを受ける。


1962年、ゲイシーはスタンリーに車を貸してもらおうとするが口論となり、腹を立てたゲイシーは家を出た。

ゲイシーはネバダ州ラスベガスに向かい、そこで3ヶ月間、葬儀社でバイトで働き始める。

ゲイシーは昼間、そこで死体にエンバーミング (防腐処置) を施す為に血抜き等を手伝った。

そして、夜は死体を安置している処理室の隣にある簡易ベッドで寝起きした。

だが、ゲイシーは若者の遺体を見ると異様に興奮した。

しかも、子供になればなるほどその興奮は強くなった。

また、ゲイシーは気に入った少年の遺体に出会うと、棺の中に潜り込み、遺体に寄り添って何とも言えぬ興奮を抱いていた (しかし、後にゲイシー自身がその事を否定している) 。

その後、3ヶ月働いた所でマリオンがゲイシーを迎えに来た為、ゲイシーはシカゴに戻る事となった。

シカゴに戻ったゲイシーはビジネスの専門学校に通う事となり、卒業後は大手の靴販売店にセールスマンとして働き始めた。

ゲイシーはセールスマンとして優秀な成績を上げ、若くしてエリアマネージャーとなる。

また、ゲイシーは「United States Junior Chamber (青年会議所) 」の有力会員となり、会議所でも優秀さを示し、2年後にはイリノイ州全体で3番目という活動実績を挙げた。


1964年、ゲイシー22歳の時、マリリンという女性と結婚する。

しかし、ゲイシーは結婚する数ヶ月前、一緒に酒を飲んだ男性と関係を持ってしまう。

この事で、ゲイシーはスタンリーが子供の頃から散々言っていた「オカマ野郎」という言葉が現実になってしまった事に恐怖を抱く。

結婚後、ゲイシーはマリリンの父親が所有するケンタッキーフライドチキン3店舗のマネージャーを兼任する為、アイオワ州へ引っ越した。

ビジネスの成功と地域活動にも積極的に参加し、ゲイシーは地域でも屈指の有力者となり人望も厚かった。

ゲイシーは青年会議所の次期会長といわれるようになる。

ゲイシーは仕事で多忙であったにも関わらず、地元のボランティア活動にも積極的に参加した。


1967年、ゲイシーはドナルド・ヴァリューズ (15歳♂) という青年会議所の息子を

「自宅でポルノ映画を観ないか」

と言って誘い出す。

そして、自宅の地下室で関係を持った。

ゲイシーはヴァリューズに金を払ったが、ヴァリューズはその後、何度もゲイシーのもとを訪ね脅して金をせびった。

ゲイシーは仕方なく金を払い続け、その度に行為に及んだ。

だが、半年後、ヴァリューズがゲイシーを訴え逮捕された。

ヴァリューズがゲイシーを訪ね、
「クリスマスにバンドで使うアンプを買いたいから金をくれ」
と頼んだ際にゲイシーが追い返した為だった。

裁判ではヴァリューズの友人でゲイシーの店でバイトをしているリンチという少年が出廷し、
「ナイフで脅され鎖で自由を奪われた上、肛門を犯された」
と証言した。

陪審は全面的に少年たちの証言を取り入れた。

ゲイシーは自身を貶める為に綿密に計画された罠だと主張するが認められず、懲役10年の実刑判決を受けて刑務所に収監された。

この出来事でゲイシーの順風満帆だった人生が終わり、マリリンに離婚も要求され、受理されて離婚した。

収監されたゲイシーだったが、わずか7ヶ月で高校の卒業資格を取得し、刑務所内の待遇改善等2つの法案を州議会に通した。

こうした功績と模範囚としての態度が認められ、わずか16ヶ月で出所する (この刑務所にいる間、父スタンリーが肝硬変で死んでいる) 。

出所後してから半年後、ゲイシーは少年に対する暴行容疑で再び逮捕される。

だが、原告が裁判に姿を見せなかった為、不起訴に終わった。


③に続く