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フアン・エルモサ (エクアドル)
【1976 ~ 1996】



フアン・フェルナンド・エルモサは、1976年2月28日、エクアドル・キト州ロス・リオスで生まれた。

エルモサは幼い時に父を失い、養父によって育てられたが、養父はほとんど家に居らず、エルモサは放置された。

また、母親は関節炎と難聴に苦しんでおり、エルモサは子供の頃からそんな母親の世話をしなければならなかった。


成長するとエルモサはラマリンの中心部にあるゲームセンターに入り浸るようになる。

そして、15歳の時に同じ年齢の10人の友人とギャングを結成する。

その後、エルモサとギャングのメンバーはバーやクラブに入り浸るようになる。


1991年11月22日、エルモサとギャングメンバー4人はナイトクラブに行く為にタクシーに乗った。

タクシーはエルモサの支持した目的地に到着する。

すると、エルモサは銃を取り出し、タクシードライバーに向かって発砲し射殺した。

これ以降、エルモサは全ての犯行でこの銃を使用する。

ギャングメンバーの1人がタクシーを運転し、南東へ移動してそこで死体と車を捨てた。


翌日の朝、警察が捨てられたタクシーと死体を発見する。


タクシードライバー殺害の翌週、同性愛者のチャーリーが、エルモサらと酒を飲み、意気投合するとギャングの一員となった。

その後、エルモサらはチャーリーの家で飲む事となった。

酒が進むと、ちょっとした事でエルモサとチャーリーが口論を始める。

そして、怒りが頂点に達したエルモサは、銃を取り出しチャーリーに向けた。

そんなエルモサに驚いたチャーリーは命乞いをする。

その命乞いは5回に渡った行われたが、そんなチャーリーを無視してエルモサは発砲し射殺した。


その後、エルモサ率いるギャングは、ラマリンで強盗や殺人を繰り返し行う。

その為、ギャングを率いるエルモサは『Niño del terror (恐怖の子供) 』と呼ばれ恐れられた。

余りの横暴に業を煮やした警察は、大規模なギャング討伐隊を組織し、捜査にあたった。


1992年1月9日、1人の警官が偶然、エルモサの住んでいる家を見つける。

しかし、この段階ではエルモサの家だと断定は出来ず、警官は応援を呼ばず単独で部屋に侵入する。

警官はエルモサが普段寝ている部屋に入ったのだが、この時、エルモサはたまたま母親の部屋で寝ていた。

異変に気付いたエルモサは銃を持ち出し、警官に近づくと警官がエルモサに気付き、降参するよう警告する。

しかし、エルモサは従わなかった為、エルモサと警官による銃撃戦が展開される。

銃撃戦は15分もの間続き、エルモサが放った銃弾が警官に命中し、警官は死亡する。

だが、その直後、エルモサは逮捕される。

結局、エルモサによる犯行はわずか3ヶ月足らずであったが、最後の警官を含め合計22人も殺害された事が判明した。


裁判でエルモサは

「私はこれまで殺した相手は殺したくて殺したわけではなかった。警官殺害は銃で脅されたから撃った。タクシードライバーは私を武器で殴ろうとしたから撃った」

と述べた。


1993年、エルモサには懲役4年が言い渡された。


1996年1月、エルモサは4年の刑期を終え、出所した。

出所後、エルモサは父親とコロンビアに移住した。


同年2月28日、エルモサの死体がアグアリコ川のほとりで発見された。

エルモサの死体には拷問された痕があり、顔を撃たれ、財布が盗まれていた。

エルモサはエクアドル史上、最も最年少のシリアルキラーとされている。


最後に逮捕された際のエルモサの言葉で終わりたいと思います。

「私の名前はフアン・フェルナンド・エルモサ。そう『Niño del terror』だ」



《殺人数》
22人


《犯行期間》
1991年11月22日~1992年1月9日




∽ 総評 ∽

『Niño del terror』と呼ばれ、わずか15歳でギャングを率い、22人を殺害したエルモサ。

しかも、わずか3ヶ月足らずで行われるという異常ぶりであった。

子供による連続殺人というのは稀にあるが、いくらギャングという複数で行われたとしても、22人というのはそうある事ではない、まさに恐怖の子供である。

エルモサは殺すつもりはなかったと述べたが、その発言は身勝手極まりない。

警官が銃を向けたのも、タクシードライバーが攻撃しようとしたのもエルモサが原因であり、正当防衛を主張するのはあまりに自分勝手だ。

エルモサは出所後に殺されたが、おそらく過去にやった犯行に対する報復によるものだろう。

エルモサの死体からは拷問され散々にいたぶられた痕が見られた。

殺された犠牲者や遺族からすれば、誰がやったかはわからないがよくやったと思うだろう。