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オマル・アル=バシール (スーダン)
【1944 ~ 】



オマル・ハサン・アフマド・アル=バシールは、1944年1月1日、スーダン・北部州にある小さな村ホシュ・ バンナガで生まれた。

バシールが生まれた時のスーダンは、アングロ・エジプト・スーダンと呼ばれ、イギリスとエジプト両国による共同統治下にあった。

ホシュ・バンナガの村民は、イギリスから派遣された役人の顔色を伺って生活を送っており、明日の食べ物も事欠く貧しい生活を送っていた。

そんな貧しい村で生まれたバシールの食卓には、小皿1つに大勢の家族が群がるという悲惨なものだった。

その為、バシールは幼い頃から貧しい生活から脱却したいと考えるようになる。

そして、バシールはこんな貧しい生活を送っているのはイギリスのせいだと考えるようになり、イギリスを倒すしか道はないと考える。

そのイギリスを倒すには武力を蓄えるしかないと思い、武力に詳しくなる為には軍人になるしかないと考えるようになる。


バシールは中等教育と共に家族は首都ハルツームへ移住する。

入学早々、学校を仕切っている番長に因縁をつけられるが返り討ちにし、その噂はすぐに学校中に知れ渡る。

そして、バシールはこの出来事で学校を掌握した。

ある日、バシールは店でスーダン人の店員に因縁をつけているイギリス人を見る。

平謝りする店員にイギリス人は殴る蹴るの横暴を行った。

これを目にしたバシールは、いつか国内からイギリス人を追い出し、逆にイギリス人をこき使ってやると心に決める。


1960年、バシールは学校の卒業と共に軍に入隊する。

バシールは周囲が驚く程勉学に励み、忌み嫌うイギリス人から心を押し殺して多くの軍事知識を学んだ。


1961年、スーダンは念願の独立を果たす。

しかし、政府が北部のイスラム教徒中心で運営されていた為、南部の住民たちの不満が爆発し、スーダンは南北に分散し、内戦に突入する。

そして、南北による内戦はヌメイリ率いる北部側が勝利し、ヌメイリはスーダン共和国からスーダン民主共和国と改名し、スーダン大統領に就任する。


1966年、バシールは士官学校を卒業し、1973年からエジプト軍の一員として「第四次中東戦争」に参加する。


1981年、バシールは准将に昇進し、1987年までハルツーム機甲落下傘旅団長も歴任した。


しかし、絶大な人気を誇ったヌメイリだったが、イスラム法を国家法として採用した為、キリスト教系住民が多い南部の住民がまたも反発し、1983年、再び南北による内戦が勃発した (「第二次スーダン内戦」) 。

バシールは北部側として南部鎮圧に参加し、各地でデモを鎮圧した。

この時、逆らう者は容赦なく皆殺しにした。


1989年、バシールは軍事クーデターを成功させ、政権の掌握に成功する。

権力を手にしたバシールは、まず手始めに邪魔になる存在の排除に取り掛かり、前首相マフディをスーダンを堕落させたとして逮捕した。

また、活動家を反抗する者として容赦なく排除した。

バシールは政治家が団結する事を畏れ、政党を禁止する法案を自ら作り、実行にうつした。

そして、労働者が結集して力をつける事を危惧し、労働組合も禁止した。

更にバシールは、自身を批判するマスコミの報道を規制し、自身で元首、首相、軍司令官、防衛相を兼務し、自身に権力を集中させ独裁政治を強いた。

これにはすぐに多くの民衆が反発し、バシール政権に不満を持つ国民が立ち上がり、各地でデモが発生する。

これに対し、バシールは軍を派遣して力ずくで鎮圧した。

スーダン西部のダルフールでは、民兵によって約7万人が虐殺され、少なくとも200万人は難民化した。

バシールは国民の政権への不満を逸らそうと、アラブ系住民と黒人を差別的に扱い、あえて両者の対立を煽ったが、この事で人種間対立が激化してしまった。


2009年2月、ICC (国際刑事裁判所) が、バシールをダルフールにおける集団殺害の罪で起訴し、同年3月4日に逮捕状を発行した。

現職の国家元首が国際刑事裁判所で起訴されたのは史上初めての事であった。

バシールは西洋社会が勝手に決めたルールに従う必要はないとし、これを無視した。


2011年、スーダンで南部地域独立の可否を巡る国民投票が行われた。

結果は南部の独立を支持する票が圧倒的であった。

しかし、そんな事をバシールが認めるはずがなかった。


だが、同年7月9日、国際社会の力を借りて独立の可否を決めた所、98.3%という圧倒的な支持を得て、南スーダン共和国として独立を果たした。


現在もバシールの独裁は続いており、国民を大いに苦しめている。

余談だが、バシールは「世界最悪の独裁者ランキング」という項目において、2005年度~2007年度の3年間、1位に選ばれた。

また、2008年度は金正日に次いで2位、2010年度では4位に選出されている。


最後にバシールのこんな発言で終わりたいと思います。

「スーダンの為、指導者の為に命を投げうつ事は国民にとって名誉ある事だ。だから国民は喜んで死ぬべきだ。私を守る事が国民の義務なのだ」



《虐殺数》
10万人以上


《就任期間》
1989年6月30日~




∽ 総評 ∽

3年連続で独裁者ランキングで1位に輝いたバシール。

そのランキングが示す通り、バシールは独裁者として世界にかなり批判を受けている。

幼い頃に貧しい生活を送ると、お金に対して人一倍執着するようになる可能性があり、バシールもそうであった。

バシールが自身が感じたイギリスの支配に対して、独立してイギリスを見返すという考えを抱いた。

その考え自体はよかったが、実際権力を握ると私利私欲に走り、国政の安定よりも私利私欲に走り、情勢は植民地時代より不安定になってしまった。

植民地支配というのは支配する国の肥やしになる為に存在するので、バシールのように独立や見返してやるといった考え方になるのは当然と言えば当然だ。

ただ、アフリカ諸国の中で、西欧の植民地支配から脱却して争いが無くなり裕福で落ち着いた国になったというのは皆無に等しく、必ず内戦や権力争いで国勢が乱れてしまう。

植民地支配からの脱却は大いに良い事だが、独立後、国民の為に西欧諸国を見返す程の素晴らしい国にして欲しいものだ。