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ステファン・キスコ (イギリス)
【1952 ~ 1993】



1975年10月5日、レズリー・スーザン・モルシード (11歳♀) は、この日の午後、家を出てパンを買いに店に向かった。

しかし、店に行った後、モルシードは行方不明となる。

モルシードは生まれてから先天的な心臓病を抱える病弱な少女であった。

モルシードの親や近隣住民が必死に捜索を行うが、モルシードを見つける事が出来なかった。


3日後の8日、リシュワース・ムーア近郊のトランス・ぺナイン山脈の芝生の上でモルシードの死体が発見される。

モルシードは肩周辺を12回刺され、強姦されて殺されていた。

警察は捜査を続けると、容疑者として1人の男性の名が挙がる。

ステファン・イワン・キスコ (1952年3月24日生まれ) というスロベニア人で、ウクライナに国籍を持つ23歳の地方税務員であった。

実は10代の女の子4人 (マクシーン・バックリー、キャサリン・バーク、デビー・ブラウン、パメラ・ハインド) が一緒に歩いていると、モルシードがいなくなった前日にキスコと遭遇し、キスコが下半身を露出したと述べた。

しかも、キスコが1ヶ月に渡り女の子の1人の後をつけ、ストーキング行為を行ったと述べた。

その為、ウェスト・ヨークシャー警察は、キスコをモルシード殺害の最重要容疑者とした。

警察はキスコの事を調べるが、キスコにはこれまで非行や犯歴が全くない事がわかった。

だが、警察はキスコをモルシード殺害の犯人だと確たる証拠がないにも関わらず決めつける。


1975年12月21日、警察はキスコをモルシード殺害で逮捕する。

キスコをはもちろん無実を主張するが、警察は3日間に渡り長時間集中的な尋問をキスコに行った。

そして、警察は罪を認めれば一旦家に帰れるぞとキスコに自白を促し、キスコは精神的苦痛からやってもいない罪を認めてしまう。


同年12月24日、キスコは起訴されるが、弁護士の助言のもと、自白を取り下げた。


1976年7月7日、キスコの裁判が始まる。

キスコは無実を主張し、弁護側はモルシード殺害時の矛盾点等を挙げ、キスコの無実を訴えた。

また、弁護側はキスコの事件の時のアリバイを示した。

検察側はキスコが当時服用していたテストステロンが殺人の衝動を起こさせたと主張したが、その理屈はあまりに苦しかった。

キスコが何故やってもいない殺人を告白したのかと問われると、
「私は精神的に追い詰められ、嘘を言うようになり始めていた。警察の圧力が私を追い込んだ」
と語った。


同年7月21日、5時間35分の審理の末、キスコは有罪判決が下され、終身刑が言い渡された。

女の子の1人バックリーは判決を知った後、
「怪物が一生刑務所に入る事となり、これで子供たちも皆安全に生活出来る」
とインタビューに答えている。

キスコの弁護側は判決を不服としてすぐに控訴した。


キスコは刑務所に収監されたが、キスコの事件を事前に知った大多数の受刑者がキスコに対して非常に強い嫌悪感を募らせていた。

その為、キスコは刑務所に収監された直後に4度、受刑者に襲撃され、命の危険にさらされた。


同年8月24日、キスコはウェイクフィールド刑務所に移送されたが、ここでも受刑者に襲われ、6人の受刑者によってたかって繰り返し殴る蹴るの暴行を受けた。

そして、受刑者たちに拘束され、更に暴行を受けた。

刑務官はキスコを他の受刑者から守る為、引き離して隔離した。


しかし、1977年5月11日、キスコは別の受刑者に襲われ、受刑者はモップでキスコに殴りかかった。

キスコは頭を3針縫う重傷を負った。


1978年5月25日、判事はキスコの控訴に対し、
「陪審が下した判決を支持する」
としてキスコの控訴を棄却した。


同年12月、キスコは刑務所の礼拝堂で別の受刑者に顔を1回殴られ怪我を負った。


1979年、この頃からキスコの精神は破綻していき、統合失調症を患う。

キスコは元々体が病弱であった (1970年9月29日、18歳の時に心臓発作を発症していた) 。

キスコは無実を主張し続けたが、精神分裂症によるものだとされ、診断した医師は
「無実の妄想」
だとした。


1981年3月、キスコは別の受刑者同士の争いに巻き込まれ、再び顔を殴られた。

この時、キスコは初めて反撃したが、キスコはその後、28日間独居房に拘束された。

これほど悲惨な目に遭っていたキスコであったが、キスコが裁かれた事件の内容により、他の受刑者はおろか刑務官からもほとんど同情される事はなかった。

しかし、その後、キスコは主に刑務所内の病院棟にいたので、受刑者たちから暴行を受ける事はなくなった。


同年11月11日、キスコはグロスター刑務所に移送され、1983年4月、殺人を認めた場合、仮釈放の資格の得る事が出来ると告げられた。

しかし、このまま無実を主張し続けるならば、一生刑務所で過ごす事になるとも言われた。

だが、やってもいない罪を認めるわけにはいかないと、キスコは断固として拒否する。


1983年1月、キスコはブリストル刑務所に移送されるが、1984年6月、精神科医は刑務所内の病院ではなく、きちっとした病院で治療すべきだと述べた。


1987年8月、キスコはウェイクフィールドからグレンドン・アンダーウッド刑務所に再度移送された。


1988年、当時の知事が、キスコに強姦と殺人を犯した性犯罪者の治療プログラムに参加するよう説得した。

しかし、キスコは何度も促された参加を拒否する。

キスコはやってもいない犯罪の更生プログラムに参加する必要などないと断固として断ったのだった。


1989年5月、キスコはウェイクフィールド刑務所に戻り、1991年3月15日、アシュワース病院に移送された。

キスコが刑務所に収監されている間、キスコの母親は息子の無実を訴え続けていた。

しかし、当時のイギリスは首相のジェームズ・キャラハン (♂) やマーガレット・サッチャー (♀) が法制度を重んじる政治家だった為、キスコの事件に対する処置は何も行わなかった。


[後編]に続く


※この記事が記念すべき1000記事目となりました (実際は複数日に渡って掲載している記事もあるので、正式には1000記事目ではなく1000日目) 。
それを記念して2日間に渡り衝撃的な事件を掲載したいと思いますので、長い文章ですがお付き合い頂ければ幸いです。