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カンポ・デルガード (コロンビア)
【1934 ~ 1986】



カンポ・エリアス・デルガードは、1934年5月14日、コロンビア・チナコタで生まれた。


1939年、デルガード5歳の時、一家はチナコタからブカラマンガに引っ越した。


1941年、デルガードの父親が自殺するという悲劇に見舞われる。

それを目の当たりにしたデルガードは幼心に相当なショックを受ける。

以後、デルガードは姉と共に母親に育てられるのだが、デルガードは姉とは仲が悪かった。


デルガードは賢い青年に育ったが、この頃には母親との関係も悪化していた。

その為、デルガードはスペイン・パンプローナに移住し、そこで大学に通い、医学を専攻した。

デルガードは2度結婚し、2人の子供に恵まれた。

デルガードの子供は母親と共にアルゼンチンに住んでいた。


1970年、デルガードは30も半ばになる頃にアメリカへ渡り、アメリカ軍に入隊する。

入隊後、デルガードは『ベトナム戦争』に従軍する。

デルガードはこの『ベトナム戦争』に参加した事で、ついに精神が破綻してしまう。

これ以降、デルガードは反社会的な態度をとるようになり、しかも、冷酷で冷淡な性格となってしまう。


アメリカへ戻ったデルガードは、軍を除隊し、ニューヨークでしばらくホームレスとして生活した。

その後、デルガードはコロンビアに戻り、首都ボゴタに住み始めた。

デルガードはボゴタで英語塾の教師として働きながらジャヴェリアナ大学の大学院課程を履修した。


1986年12月3日昼間、デルガードはボゴタ銀行へ赴くと、自身の口座を解約し、預金49896ドル93セント (約570万円) 全てを引き出した。

担当した窓口係が当初、端数の93セントを50セントだけ渡すと、93セントきっちり全て渡すようデルガードが告げた。

デルガードはその引き出したお金で32口径回転式銃と500発もの銃弾を購入した (買ったのは当日午後か翌日午前中かはよくわかっていない) 。


翌日の4日午後2時頃、デルガードは英語塾の教え子クラウディア・リンコン (14歳♀) のアパートへ向かう。

アパートにはクラウディアの他に弟のユリオ・エドゥアルト (11歳) と母親ノラ・ベセラ・デ・リンコン、クラウディアの祖母が住んでいた。

デルガードがアパートを訪れた時にはクラウディアとノラしかいなかった。

デルガードは銃で脅し、ノラにギャグ (猿轡) と手錠を掛け、リビングルームのソファに寝かせた。

そして、デルガードはナイフを取り出すと、4回刺して殺害した。

その後、クラウディアにもギャグをかませ、手足を拘束し、ベッドに引きずり下ろすと22回刺して殺害した。

2人を殺害後、デルガードは家に戻ったが、2人の死体は後日、ユリオが戻った時に発見する。

家に戻ったデルガードは母親と住んでいたのだが、その母親と激しい口論となる。

怒りが頂点に達したデルガードは、日頃の仲の悪さも重なり、背後からナイフで首を突き刺し殺害した。

その後、死体を新聞で包み、ガソリンを撒いて火を点けて燃やした。

そして、デルガードは弾薬の入った箱5つとナイフ、拳銃を収めたケースを持ち出すと、

「火事だ!火事だ!」

と叫びながら部屋を出た。

デルガードはアパートの下の階に向かうと、部屋の住人イネス・ゴルディ・ガラット (学生♂) とネルシー・パトリシア・コルテス (♀) に消防署に連絡したいので電話を貸して欲しいとドアを叩いた。

そして、ドアが開いた瞬間、デルガードはイネスとネルシーの頭部にそれぞれ1発ずつ撃って射殺した。

銃声に驚いた隣人グロリア・イザベル・アグデロ・レオン (♀) が部屋から出て来るが、その瞬間デルガードはグロリアの頭にも1発撃って射殺した。

その後、デルガードはアパートの1階まで下り、再び部屋の住人に消防署に連絡したいとドアを叩いた。

部屋にはベルタ・ゴメス (♀) 、マチルデ・ロシオ・ゴンザレス (学生♀) 、メルセデス・ガンボア (♀) 、マリア・クラウディア・ベルムデス・ドゥラン (♀) の4人がいた。

デルガードは次々と女性たちに発砲し、窓から飛び下りて逃げ延びる事が出来たゴメス以外の3人が射殺された。

ゴンザレスは受話器を手に取ったまま死んでおり、ガンボア同様即死であった。

ベルムデスは唯一息があったが、病院に運ばれて間もなく死亡した。

ゴメスは警ら中の警官を見つけ、助けを求めたが、アパートが燃えているのを確認すると、
「これは消防の仕事で警察の仕事じゃない」
と一喝し、ゴメスを保護する所か相手にしなかった。

アパートを離れたデルガードは、近くに掲示されていた舞台劇『Bodas de Sangre (血の婚礼) 』のポスターをしばらく眺めた。

その後、デルガードは友人カストロの家を訪れた。

15分程カストロと話した後、デルガードはカストロの家をあとにした。

後にカストロはこの時のデルガードの様子を
「彼は非常に興奮した様子で、普段、口数が少なかったがこの時は絶え間なく喋っていた。また、彼は中国かアメリカへ行くつもりなので、別れの挨拶をしにきた」
と語った。

デルガードはチャピネロ地区にある行きつけのイタリアン・レストラン『Pizzería Pozzetto (ピザーラ・ポッツェット) 』に向かい、その途中でナイフを捨てた。

この時には警察はデルガードを探していた。

『Pizzería Pozzetto』に到着したデルガードは、普通にウェイターに注文 (赤ワインとスパゲッティ) した。

デルガードは食事を終えた後、雑誌を読みながら酒 (スクリュードライバー) を飲んだ。

しかし、デルガードが何度もトイレに行く姿を不審に思ったウェイターが警察に連絡した。

だが、警察が到着する前に、デルガードは店内で銃を乱射し始める。

この銃撃で32人が撃たれ、20人が致命的な傷を負った。

警察が銃撃から10分後に到着したが、デルガードは致命傷を負った負傷者を隅に追い詰めると1人ずつ確実に至近距離から発砲し、射殺した。

警官隊到着後、銃撃戦が展開され、デルガードは射殺された。

デルガードは警官隊の1人にこめかみを撃たれて死亡した (こめかみを撃たれている事から自殺したという説もある) 。

結局、デルガードによる犠牲者は全部で29人となり、12人が負傷した。

実はデルガードは子供は殺さないと決めていたのだが、銃の暴発により隣のテーブルに座っていた6歳の少女が死亡していた。

しかし、このデルガードの銃乱射事件は、後に色々問題となった。

まず、ゴメスが警ら中の警官に助けを求めた際の対応や、レストランで殺害された中には、実は警官隊が使用したウージー短機関銃の銃撃に巻き込まれた者もいたとされたからだった。


2002年、コロンビアの作家マリオ・メンドーサ・サンプラーノは、デルガードの事件を題材とした小説『Satanás (サタン) 』を発表した。

この小説はベストセラーとなり、いくつもの賞を受賞している。


また、2007年にはデルガードの事を題材にした『ある殺人者の記録』が映画化されている。

このデルガードの銃撃事件は、コロンビアにおける銃乱射事件としては最も犠牲者を出した事件の1つと言われている。



∽ 総評 ∽

実の母親を含め全部で29人を殺害したデルガード。

デルガードのような短期間に多くの人間を殺害する人物をスプリー・キラーと呼ぶが、通常、スプリー・キラーは相手にこだわりがなく、無差別に狙う事が多い。

このデルガードの異質な所は、まず教え子家族を殺害し、そして、母親を殺し、最後にレストランで凶行に及んだ所だ。

母親に関しては口論の末殺害しており、元々殺害する気がなかったかもしれない。

また、母親を殺害した事でたがが外れ、レストランでの凶行に及んだ可能性も否定出来ない。

デルガードは『ベトナム戦争』に参加した事で性格が激変し、その後の暴走に繋がった。

アーサー・ショウクロスも『ベトナム戦争』で猟奇性が開花したが、戦争という極限状態が精神を蝕むのは想像に難くない。

警官は助けを求める被害者を仕事じゃないと無視したが、住民を助けるのが警察の仕事であり、この対応はとても信じられない。

この時にしっかりとした対応していればその後の悲劇は起きなかった可能性がある。

被害の甚大さを考えると残念でならない。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★☆☆
・残虐度 ★★★★☆☆☆☆☆☆
・異常性 ★★★★★★★☆☆☆
・特異性 ★★★★★★☆☆☆☆
・殺人数 29人
(他負傷者12人)
《犯行期間:1986年12月4日》