_20190519_165909
ウィリアム・ユネック (コンゴ)
【1929 ~ 1957】



ウィリアム・ユネック (1929年生まれ) は、ベルギー領コンゴ共和国 (当時のコンゴはベルギー領であった) で、警察の巡査や警察隊の兵士として働いていた。


1954年1月1日、ユネックはコンゴ・マハギで次々と男女に襲いかかる。

ユネックは斧で武装し、次から次へと襲ったのだが、犠牲者は全員見知らぬ相手であった。

結局、ユネックによる犠牲者は全部で21人に及んだ。

その後、ユネックは逮捕される前に逃走を図り、コンゴを離れてタンガニーカへ移住し、そこで新しい生活を始めた (現在のタンザニア。当時は英国領であった) 。

ユネックはタンガニーカでは仕事に就き、何もなかったかのように生活を続けた。

しかし、ユネックは職場の上司との間に誤解が生じてしまい、再び殺人を行う。


1957年2月11日早朝、ユネックはタンガニーカ・シニャンガ州南東約40マイル (約65km) のムワンザを襲撃する。

ユネックは盗んだ銃と50ラウンドの弾薬、斧で武装し、マハギ同様次から次へと襲い始めた。

犠牲者の内、男性10人、女性8人、子供8人は銃で撃たれて殺害された。

5人の男性は斧で殴り殺され、2人の女性は刺し殺された。

1人の子供は焼き殺され、15歳の少女は首を絞められて殺害された。

また、ユネックは犯行に及ぶ前に自身の妻を殺害していた。

こうしてユネックの犯行は12時間に及び、犠牲者は全部で36人に及んだ (犠牲者の1人に警察の巡査部長の妻がいた) 。

その後、ユネックは殺害した犠牲者の服を盗んで着ると、前回と同じく逃走を図った。

警察はすぐにユネックの捜索を開始するが、当時のタンガニーカでは最大規模の捜索となった。


9日間大規模な捜索を行ったが、ユネックを捕まえる事は出来なかった。


しかし、10日後の21日、ユネックの滞在する家を突き止め、警察が家に押し寄せた。

警察は2時間に渡りユネックに話し掛け、説得した。

だが、ユネックは投降しなかった為、しびれをきらした警察は発煙弾を家の中に投げ込んだ。

堪らずユネックは家から飛び出した。

ユネックはその場で逮捕されたが、発煙弾投入後しばらく家の中に留まっていた為、火傷の痕が酷く瀕死の状態であった。

すぐにユネックは病院に搬送されるが、搬送先の病院で間もなく死亡した。

事件後、ユネックによる犠牲者の家族を支援するチャリティーが設けられている。

余談だが、このユネックによる大量殺人は、20世紀における最も致命的な事件にランクインしている。



∽ 総評 ∽

コンゴとタンガニーカで合計57人殺害したユネック (負傷者は30人以上) 。

57人という数字は、以前掲載した禹範坤の数と同じであるが (禹範坤の殺害数には諸説ある) 、ユネックは禹範坤とは異なり、1回目が21人、3年後の2回目が36人と同じ日に行われていない。

歴代の瞬間大量殺人ランキングというのはネットで確認出来るが、何故かこのユネックによる瞬間大量殺人はランクインしていない。

合計では瞬間大量殺人にはならないので、せめて2回目の36人で歴代4位にランクインしてもおかしくない。

通常、瞬間大量殺人の場合、犯人は死ぬか逮捕されるかのどちらかで、このユネックのように数年間のうのうと生活するというのはそうある事ではない。

数ヶ所で犯行を行うというのはこれまで何人もいるが (アンネシュ・ブレイビクは爆破で8人殺害した後、銃撃で69人殺害している) 、大抵が同日か数日の間隔しかなく、このユネックのように3年もの間隔が空いているというのは非常に珍しい。

しかも、ユネックは21人と36人という数もかなりのもので、複数ヶ所でこれほどの犯行に及ぶというのは他に類をみない。

アフリカという土地がそうさせたのかもしれないが、そうだとしても犠牲者があまりに多過ぎる。

ユネックは詳細がない為、どのような幼少期を送ってきたかよくわからず、また、コンゴで凶行に及んだきっかけや理由もわからない。

ただ、タンガニーカでは上司とのトラブルがきっかけだが、そんな理由で30人以上も殺害されてしまった。

ユネックはコンゴで20人以上殺害した後、タンガニーカで仕事に就き、普通に働いていたのだが、考えるだけで恐ろしいの一語に尽きる。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★★☆
・残虐度 ★★★★★★★☆☆☆
・異常性 ★★★★★★★★★☆
・特異性 ★★★★★★★★☆☆
・殺人数 57人
(負傷者30人以上)
《犯行期間:1954年1月1日、1957年2月11日》