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マリー・ノー (アメリカ)
【1928 ~ 】



マリー・ノー (旧姓リッディー) は、1928年8月23日、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれた。

父をジェームズ、母をエラ (旧姓アックレー) といった。

マリーには何人もの兄弟がいたが、マリーはその中でも難産で生まれた子供だった。


マリー5歳の時、猩紅熱 (小児に多い発疹性伝染病) にかかり、それが原因で学習傷害となってしまう。


マリーは高校を途中で中退した。


マリーはフィラデルフィアのウェスト・ケンジントンのクラブでアーサー・アレン・ノエ (1921年生まれ) と出会う。


そして、1948年6月1日、マリーとアーサーは駆け落ちする。

その後、2人で生活を始め、マリーは子供を生む。

だが、生まれて間もない子供たちは、次々と謎の死を遂げていく。


1949年3月7日、リチャード・アラン (♂) を生むが、ちょうど1ヶ月後の同年4月7日、リチャードは死亡する。


1950年9月8日、エリザベス・メアリー (♀) を生む。

エリザベスは1951年2月17日、生後約5ヶ月で死亡する。


1952年4月23日、ジャクリーン (♀) を生むが、わずか10日後の5月3日に死亡する。


1955年4月23日、アーサー・ジュニア (♂) を生むが、わずか5日後の4月28日に死亡する。


1958年2月24日、コンスタンス (♀) を生むが、1ヶ月も経たない同年3月20日に死亡する。


1959年8月24日、レティシア (♀) が生まれるが、レティシアは死産であった。

死因は臍帯結節による血液が正常に流れなかった為であった。


1962年6月19日、メアリー・リー (♀) を生む。


メアリーは1963年1月4日に死亡する。


同年6月、テレサ (♀) が死亡する。

テレサの死因は先天性出血性素因であった (テレサの生年は不詳) 。


同年、マリーの子供の相次ぐ死について、ライフ誌が特集をくみ、この時点で亡くなっていた6人の子供について公開された。


1964年12月3日、キャサリン・エレン (♀) を生む。

キャサリンは1966年2月24日まで生きたのだが、結局、このキャサリンがマリーの子供の中で最も長生きした子供となった (それでもおよそ1年3ヶ月) 。


1967年7月28日、アーサー・ジョゼフ (♂) を生む。

ジョゼフは1968年1月2日に死亡する。


その後、マリーは再び妊娠し、子供を帝王切開で出産するが、子宮が破裂してしまい、子宮を摘出した。


1998年4月号のフィラデルフィア誌に、スティーブン・フリードがマリーの記事を掲載する。

そこにはマリーの子供の相次ぐ死は、マリーにより故意に引き起こされたものだというものだった。


1998年3月、フリードは自身が独自に調べた調査報告書をフィラデルフィア警察署に提出した。

それを読んだ警察はすぐに行動を起こし、早速マリーに尋問した。

すると、マリーは4人の子供を窒息させた事を認めた。


同年8月、マリーは8つの第二級謀殺で起訴された。


1999年6月28日、マリーは罪を認め、この時、自宅軟禁されていたマリーは懲役5年、執行猶予20年が言い渡された。


2001年9月、マリーは脳の損傷による人格障害に苦しんでいるとして精神鑑定を受ける事になった。


2009年、夫アーサーが死亡している。


最後に4人の子供殺害を認めた後、警察に他の子供の殺害を聞かれた際のマリーの言葉で終わりたいと思います。

「覚えていない」



∽ 総評 ∽

自身の子供を生んでは次々と葬ったマリー。

以前にもマリーのような子供を殺害する母親を紹介してきたが、8人というのは中でもトップクラスの殺人数であろう。

マリーのように次々と自分の子供を殺害する母親は意外に多く、大抵が周囲の同情を買う『代理ミュンヒハウゼン症候群』の事が多い。

だが、マリーは周囲の同情を買ったという形跡はなく、その可能性は極めて低いだろう。

多分、自身の子供を殺害する事に快感を得ていたと思われる。

ただ、子供によって生後間もなかったり1年ほど生きたりと差がある理由がよくわからない。

タイミングや自分なりのこだわりがあるのかもしれないが、さすがにこれほど相次げば怪しさしかない。

もし、子宮を摘出していなければ再び同じ事を繰り返す可能性が高く、摘出して良かったと思う。

ただ、語弊があるかもしれないが、実際に自分で子供を何人も生んでいるその体力には恐れ入る。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★☆☆
・残虐度 ★★★★☆☆☆☆☆☆
・異常性 ★★★★★★★★★☆
・特異性 ★★★★★★★★☆☆
・殺人数 8人

《犯行期間:1949年4月7日~1968年1月2日》