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ハミダ・ジャンドゥビ (フランス)
【1949 ~ 1977】



1949年1月1日、ジャンドゥビはチュニジアで生まれた。


1968年、ジャントゥビはフランスに移住する (移住の経緯はよくわからないが、チュニジアは元々フランスの植民地で、1956年3月20日、独立している) 。

フランスのマルセイユに移住したジャンドゥビは、当初は雑貨店で働き、その後、造園技師として働くようになる。

仕事ぶりは真面目で穏やかな性格であったという。


1971年、仕事で事故に巻き込まれ、右足のほとんどを失ってしまう。

足を失ったショックは大きく、造園技師として働くのは困難な為、仕事を辞めざるを得なくなる。

その後、ジャンドゥビは売春の客を集めるポン引きとして生活するようになった。


1973年、ジャンドゥビは通院していた病院でエリザベート・ブスケ (21歳) という女性と出会い、交際するようになる。

しかし、交際直後、ジャンドゥビはブスケに売春を強要し、ブスケに訴えられる。

ジャンドゥビは逮捕されるが、すぐに釈放される。


1974年7月、すでにジャンドゥビと別れていたブスケだったが、ジャンドゥビに誘拐され監禁されてしまう。

ジャンドゥビは仕事で管理する少女2人が見守る前でブスケを執拗に殴った。

それでも怒りが収まらないジャンドゥビはタバコの火をブスケの胸と局部に押し当てた。

散々暴行を加えた後、虫の息のブスケを車に乗せ、マルセイユ郊外の人気のない場所に連れて行くと、首を絞めて殺害した。

そして、死体を捨てた。


ジャンドゥビはブスケ暴行現場に居合わせた少女2人に堅く口止めしていたが、結局、その少女たちの自供により、ブスケの死体は同年7月7日、発見される。


同年8月、別の女性誘拐容疑でジャンドゥビは逮捕され、ジャンドゥビはブスケ殺害を認めた。


1977年2月24日、裁判が行われ、ジャンドゥビは殺人と強姦の罪で起訴された。

ジャンドゥビの弁護側は、労災による右足切断のショックによりアルコールに逃げ、その後、足の不自由な生活を6年間送り、アルコール中毒となってしまった。

その為、アルコール中毒の発作などにより、凶暴になってしまったと弁護した。


翌日の2月25日、ジャンドゥビには死刑が言い渡された。


ジャンドゥビはすぐに控訴するが、同年6月9日、控訴は棄却された。


同年9月10日、マルセイユにあるボーメット刑務所でジャンドゥビの死刑が執行された。

享年28歳。

ジャンドゥビは処刑直前、タバコを求め吸った。

もっと吸いたいとタバコを要求するも、断られている。

尚、ジャンドゥビはギロチンによって処刑されたのだが、フランスは1981年に死刑を廃止しているので、ジャンドゥビは今の所、フランスにおける歴史上最後にギロチンで処刑された人物となった。



∽ 総評 ∽

元ガールフレンドを誘拐・監禁し殺害したジャンドゥビ。

裁判での弁護側の主張通り、ジャンドゥビ右足を失った事でアルコールに溺れ、精神的に追い詰められていった。

当時は今ほど義足の技術も進歩していなく、足がないというのは相当なハンディキャップであったろう。

私は五体満足であり、もちろん足を失った人の気持ちはわからない。

ただ、世の中、同じような目にあってしっかりと生きている人はごまんといる。

「足を失ったショックで酒に溺れ人を殺しました」と言われて「しょうがないね」とは誰も思わない。

結局はジャンドゥビの精神的に弱さが招いた自分勝手の愚行である。

ジャンドゥビはフランスでギロチンで処刑された最後の人物となったが、ギロチンは古くはマリー・アントワネット等にも使用されたフランスでは定番の処刑方法であった。

第二次世界大戦前にまでは多くの見物客が見守る中での処刑が当たり前であったが (これは特別珍しい事ではなく、日本でも江戸時代までは公開処刑が普通に行われており、大衆娯楽の1つであった) 、人道的理由から非公開となった。

また、調べてみると、フランスのみならず世界でジャンドゥビが処刑されて以降、公式にギロチンで処刑された人物はおらず、ジャンドゥビが最後の人物の可能性が高い。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★☆☆☆☆☆☆
・残虐度 ★★★★★★☆☆☆☆
・異常性 ★★★★★☆☆☆☆☆
・特異性 ★★★★★★☆☆☆☆
・殺人数 1人

《犯行期間:1974年7月2日》