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ウォルフガング・プリクロピル (オーストリア)
【1962~2006】



2006年8月23日、オーストリアの首都ウィーン近辺で、衝撃的な事件が起こる。

それは一本の電話であった。

電話の主は71歳の女性で、彼女が若い女性を保護したというのだった。

数分後、警察が駆け付けると、71歳の女性と青白い顔をした女性がおり、名前を訪ねると「ナターシャ・カンプッシュ」と答えた。

その後、ナターシャから話しを聞いた警官は、あまりの内容に驚愕。

警察がすぐにナターシャを保護した。

ナターシャは警察で今までの出来事を全て話した。

以下は本人談による事件の詳細である。


1998年3月1日朝、当時、10歳だったナターシャはウィーンで暮らす普通の少女だった。

いつも通り鞄に勉強道具を入れ、学校に向かった。

学校に向かう途中のナターシャに、白いマイクロバスが近づき、その瞬間、車の中に引きずり込まれた。

その様子を12歳の子供が目撃している。

事件発生後、警察は776台のマイクロバスを調べた。

その中にはプリクロピルの車もあった。

プリクロピルはナターシャの家からわずか30分ほどの所に住むエンジニアであった。

プリクロピルも警察の尋問を受けるが、アリバイがなかった。

マイクロバスの所有は認めたものの、仕事で沢山ガラクタが出るので、それを自宅に運ぶのに必要だと主張する。

警察はアリバイがないにもかかわらず、プリクロピルのその主張を真に受けてしまう。

ナターシャは誘拐された時、パスポートを持っていたので、警察は国外にも捜査の手を広げた。

しかし、大規模な捜査にもかかわらず、手掛かりが全く掴めず、ナターシャの行方はわからなかった。

プリクロピルはナターシャをガレージの下の窓の無い、防音の地下室に閉じ込めた。

その地下室は広さわずか5平方メートルで、扉は鋼鉄で補強されたコンクリート製だった。

ちなみにこの地下室からの出入口は、金庫で塞がれていた。

その後、プリクロピルはナターシャを一時的に地下室から上の階で過ごす事を許した。

しかし、プリクロピルが寝る時や自分が仕事に出掛ける時は地下室に閉じ込めた。

また、プリクロピルはナターシャに家のドアと窓には爆弾が仕掛けられていて、逃げようとしたら銃で撃つと脅した。

家の中ではナターシャは、プリクロピルの1メートル後ろを歩くよう強制された。

ナターシャは度々プリクロピルに殴られ、その暴行は激しい時もあり、歩けなくなることもあるほどだった。

寝ている時は手錠をかけられ、髪を剃られ家事もさせられた。

プリクロピルはナターシャの精神を追い詰める為、

「お前の家族はお前の為の身代金支払いを拒否しており、お前を厄介払い出来て喜んでいる」

という嘘の情報を伝えた。


監禁から6年経過し、ナターシャは16歳になっても、体重が38キロもなかった。

実はこれはプリクロピルの策略で、常にナターシャを空腹状態にさせておき、あえて衰弱させて逃げられないようにしたのだ。

肉体的、精神的に辛いだけではなく、ナターシャは常に孤独であった。

その孤独はナターシャの思考を麻痺させ、プリクロピルと少しでも長く一緒にいようと考えるほどであった。

後にナターシャは
「誘拐犯が帰ってくると、自分をちゃんとベッドに連れて行って、お休み前のお話をしてくれるように頼みました。お休みのキスまでねだりました。どうにかして自分は普通の生活をしているんだと思い込もうとしたのです」
と語っている。

まだ幼かったナターシャだったが、何とか脱出しようと何度も試みていた。

監禁された最初の数年間は、塀に水の入ったボトルを通行人の注意を引こうと何度も投げつけた。

また、脱出が不可能だと悟ると目標を変え、状況を改善する為独学で勉強した。

プリクロピルが持ってくる2、3冊の本や雑誌、新聞を隅から隅まで読み漁り、ラジオはいつも教育番組やクラシック音楽を聴いた。


監禁から8年経ち、ナターシャ18歳になると、ナターシャはプリクロピルのすぐ傍ではあったが、外に出ることを許された。

ただし、声は一切出すなと言われていた。

ある時、ちょっとした声を出した事があり、その直後、プリクロピルはナターシャの首を掴み流し台まで引っ張って行き、頭を水に押し込んで気を失いそうになるまで首を絞めた。


2006年8月23日、ナターシャはプリクロピルに言われ、庭で車の掃除をしていた。

午後12時53分、プリクロピルの携帯電話が鳴り、話しをする為ナターシャがかけている掃除機の騒音から離れた場所に移動した。

ナターシャはチャンスだと思い、掃除機を捨てて走って逃げた。

プリクロピルはナターシャが出て行くのを見ていなかった。

その為、ナターシャは非常に有利なスタートを切ることができた。

何年もの間、これほど全力で走ったことはなかったが、郊外の住宅の庭を200メートル駆け抜け、フェンスを飛び越えた。

初めは通行人に警察に電話してもらえるよう頼んだのだが、信じてもらえず、5分後、辿り着き必死に窓を叩いたのが、前述した女性の家であった。

保護されたナターシャは、健康状態は良好であった。

ただ、体重が48キロしかなく、栄養失調の為、誘拐されてから15センチしか伸びてなかった。


警察はすぐにプリクロピルを探したが、警察に追われていることを知ったプリクロピルは、ウィーン北駅の近くで、走行している列車に飛び込み死亡した。

プリクロピルが列車に飛び込んだ事を聞いたナターシャは、監禁されていた時に

「生きて俺を逮捕することはない」

と語っていたと発言する。

プリクロピルはナターシャに逃げられた場合は最初から死ぬ気だったと思われる。

ただ、ナターシャはプリクロピルが死んだ事を聞くと、悲しみ、その死を悼んだ。

また、警察の取り調べでは、プリクロピルに対して親近感を表し、好意的であった。

警察はこれを『ストックホルム症候群』ではないかと判断した。


後にプリクロピルの家を捜索すると、1998年発行されたナターシャのパスポートが見つかり、DNA鑑定でもナターシャ本人であると断定された。

この事件が明るみになると、オーストリア全土が震撼した。


事件後、ナターシャは家族の下に戻り、精神的な後遺症を抱えつつも、落ち着いた生活を送り、2010年に大学を卒業する。


同年9月16日、監禁生活の苦悩を綴った自叙伝『3096Day』を発売し、自らの体験談と共に、警察の捜査に対する批判を綴った。

この本は後に映画化され、2011年、自伝の印税と寄付金を使ってスリランカに小児病院を建設している。


最後にプリクロピルがナターシャを監禁し、絶望の中で言った発言で終わりたいと思います。

「お前はもうナターシャじゃない。俺のものだ」



∽ 総評 ∽

わずか10歳の少女を8年間もの長きに渡って監禁しつづけたプリクロピル。

プリクロピルは事件発覚直後に飛び込み自殺してしまったので、ナターシャを初めから狙っていたのか、誰でもよかったのか、真相はわからない。

また、プリクロピルがこのような事件を起こした理由も本人がいない為、わからない。

この事件はナターシャが保護された後、プリクロピルに対して同情的な発言をしていたことから、「ストックホルム症候群」ではないかと言われている。

ただ、以前掲載した「ストックホルム症候群」というものが誕生した事件と比べ、監禁が長期間に渡る事と、結局は嫌で逃げ出していることから、個人的に同じ症状かは正直微妙な気がする。

この事件から2年後、以前掲載したヨゼフ・フリッツの事件が同じオーストリアで明るみになっている (ただし、フリッツが娘を監禁したのは1984年なので、ナターシャが監禁される遥か前から監禁を始めている) 。

フリッツの事件を知った時、ナターシャは何を思ったであろうか。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★★☆
・残虐度 ★★★★★★★☆☆☆
・異常性 ★★★★★★★★☆☆
・特異性 ★★★★★★★☆☆☆
・殺人数 0人

《犯行期間:1998年3月1日~2006年8月23日》