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ジニーン・ジョーンズ (アメリカ)
【1950~ 】



1950年7月13日、アメリカ・テキサス州でジョーンズは生まれた。


ジョーンズはテキサス州サン・アントニオにあるベクサー病院の小児病棟で、看護師として働いていた。


そんなベクサー病院で、1981年5月から12月にかけて、予期せぬ心臓停止や原因不明の出血が相次ぎ、20人もの児童が集中治療室で死亡した。

病院で人が死ぬのはもちろん当たり前のことだが、わずか半年足らずでしかも児童だけ20人というのはさすがに異常であった。


病院はこのままだと威信にかかわるとして、本格的な調査に乗り出した。

すると、児童に投与されていた点滴の中に、抗凝血剤が混入されていたことが判明する。


そして、更なる調査の結果、午後3時から11時までの間に死亡が集中しており、その時間帯にジョーンズが勤務していることがわかる。

ただし、ジョーンズ1人だけが勤務しているわけではないので、慎重に調べてみると、ジョーンズが休みの日には、児童の変死が一切なかったのだった。


しかし、ジョーンズは勤勉で優秀な看護師として同僚からの信頼厚く、仕事に対する行動力と判断力には定評があった。

また、親切で丁寧な対応は患者からも慕われていた。


このように看護師として完璧であったジョーンズだったが、唯一、問題な点は医師の指示を無視する傾向にあったことだった。

ジョーンズは自身が有能なことを十分理解しており、医師なんかよりも自分の方が優秀だと自負していた。


しかも、ジョーンズが疑われなかったのは、本人の優秀さもさることながら、児童が助からなかった際の悲しみ方が人一倍激しかったからだった。

遺体をずっと揺さぶりながら号泣していた。


結果、患者の遺族からの訴訟を恐れた病院は、犯人をジョーンズだと明確にするのを避け、ジョーンズを解雇することで事を治めようとした。


ベクサー病院を解雇されたジョーンズは、その後、サン・アントニオ近郊のカーヴィルで、個人経営の小児クリニックに看護師として働き始める。


だが、ジョーンズが働き始めてから、この小児クリニックでも予期せぬ心臓停止が相次いだ。

その度にジョーンズは適切な処置を施し、蘇生に尽力した。


1982年9月、チェルシー・マクラレン (17ヶ月) が、ジョーンズに受けた予防接種の注射の直後、呼吸困難となり、緊急治療を受ける為に、以前働いていたベクサー病院へと運ばれる事となる。

しかし、マクラレンはベクサー病院に運ばれる途中、救急車の中で死亡してしまう。


ジョーンズは救急車に乗り込み、必死にマクラレンの看護をしていた。

そして、元職場のベクサー病院では、まるで責任者の如く振る舞い、その様子を見て元同僚達は、過去の不審死はジョーンズによるものだと確信する。

事実、マクラレンの遺体からは、筋弛緩剤であるサクシニルコリンが検出された。


警察はマクラレン殺害の捜査に乗り出し、同年11月21日、マクラレン殺害でついにジョーンズは逮捕された。


1984年2月15日、マクラレン殺害で有罪となり、ジョーンズには懲役99年が言い渡された。


同年10月24日、他の児童による抗擬血剤を投与した罪により有罪となり、懲役60年の刑が追加されている。


ちなみに、ジョーンズは11人は殺害した事は確実で、マスコミによれば47人に及ぶとされた。

だが、警察は最低でも60人は殺害したと見ている。



∽ 総評 ∽

幼い児童や赤ん坊を次々と殺害したジョーンズ。

ジョーンズは快楽殺人というよりも、どちらかというと「代理ミュンヒハウゼン症候群」の傾向があったと思われる。

子供に毒物を投与し、一生懸命介護している姿を回りに振る舞い、同僚や家族から「一生懸命してくれてありがとう」と感謝される。


以前から何人も紹介しているが、医療従事者による殺人は多い。

それは人間の生死を握ることにより、自分が神にでもなったと錯覚するのであろう。

ただ、ほとんどの医療従事者がまともな事を考えれば、やはり殺人を犯す者が特殊なのであろう。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★☆☆
・残虐度 ★★★★★☆☆☆☆☆
・異常性 ★★★★★★★★☆☆
・特異性 ★★★★★☆☆☆☆☆
・殺人数 最低11人以上
(一説には60人)
《犯行期間:1977年~1982年》