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チャーリー・ブルックス (アメリカ)
【1942~1982】



チャーリー・ブルックス・ジュニアは、1942年9月1日、アメリカで生まれた。


ブルックスはテキサス州フォートワースに住んでおり、イザヤ・ミリガン・テレル高校に進学した。

そこで、ブルックスはフットボール選出として活躍した。


しかし、ブルックスには犯罪気質があり、銃の不法所持で逮捕され、服役した。


1976年12月14日、フォートワースの中古車屋に向かったブルックスは、セールスマンのデビット・グレゴリー (26歳) に、車に試乗したいと申し出る。

快く承諾したグレゴリーは、ブルックスの運転する車に乗る。


途中、ブルックスの知人ウッディ・ルードルズと合流すると、グレゴリーを縛り付け、トランクに押し込む。


その後、モーテルに向かうと、グレゴリーを部屋に連れ、椅子に縛り口をテープで塞いだ。

そして、グレゴリーの頭に向かい発砲し、殺害した。


しかし、すぐにブルックスとウッディは逮捕される。


裁判ではブルックスとウッディ、どちらがグレゴリーを射殺したかという事に焦点が絞られたが、2人は黙秘し、最後までわからなかった。

その為、裁判官は2人に死刑を言い渡した。


しかし、ウッディは陪審員の選定に不備があったとされ上訴し、上訴は取り上げられ、死刑から40年の禁固刑に減刑された。


この時、ブルックスの死刑判決は、社会的に問題となり論争を巻き起こしていた。

その中で、ウッディは減刑され、ブルックスは死刑という事が、より論争に拍車をかけたのである。


ブルックスは1976年にアメリカの最高裁判所が死刑の制定を改訂して以来、死刑を執行される6人目の囚人であり、黒人としては最初であった。


1982年12月7日、ブルックスには致死量による注射による死刑が執行された。

享年40歳であった。



∽ 総評 ∽

ブルックスの処刑に関しては色々物議を醸した。

それは、共犯者であるウッディが死刑を回避されたことにより、その物議により拍車が掛かった。

しかし、この事件に関しては黒人差別というよりも死刑に対する事で問題となった。

それは当時、世界が死刑撤廃に向けて動いていた事で、アメリカは特に死刑に対して世間的に争点となっていたのだった。

現在、確かに世界、特にヨーロッパは死刑廃止に積極的で、死刑があると『EU (ヨーロッパ連合) 』に加盟できない程だ。

死刑廃止論者は
「人間は過ちを犯す生き物。更生を考えるべきで、人の命を奪う死刑は人道的によくない」
というような事をよく発言する。

では、殺害された人間はどうなのだろうか?

すでに死んでるから人間ではないので、人道的に接する必要がないという事なのだろうか。

私は個人的に死刑に賛成だ。

それは死刑廃止論者がご託をいくら並べても変わる事は今後一生ない (ただし、殺人に至るまでの経緯は十分考慮する必要はある) 。

以前も少し述べたが、殺された人間は死んでいる為、意見を述べる事はもちろんできない。

殺されるという事はもちろん心の準備など出来ているわけもなく、突然、急に命を奪われるのだ。

その時の恐怖、絶望感、苦痛は筆舌に尽くし難く、それを仮に生き返って法廷で語る事が出来るなら、被告人は全員死刑になるに決まってる。

死刑廃止論者は、所詮、殺された人間や事件を他人事としか受け止めてない。

自分に置き換えられていない。

自分が殺されたり、自分の大切な人間が殺されても尚、被告人を更生させたいと思うのだろうか?

死刑廃止論者らは、まるで自分達が命というものを尊ぶっているかのように話し、声高らかに主張しているが、私からすれば究極の偽善でしかない。

被告人が死刑になるかならないかしか考えておらず、残された遺族の事を少しも考えていない。

仮に残された遺族がショックのあまり後に病死したり、自殺してしまったらその時はどう思うのだろうか?

私からすれば犯罪者の命より遺族の命の方がよっぽど大事だ。

「感情論に訴えることなく冷静に」という事もよく言われるが、そんなこと不可能だし必要ない。

私達は人間でありロボットではない。

知り合いや家族が誰かに殺されるという一生に1度経験するかしないかという出来事に出会って、冷静に対応すれという方が無理な話だ。

全てを感情的に行えとは言わないが、感情があって然るべきであり、それを排除するならもはや人間ではない。

もし、それでも冷静にと言い張るのなら、裁判での被告の反省も一切聞く必要はない。

なぜなら、感情を入れず冷静に対応すればいいからだ。

事件の内容だけを調べ、被告人にただ刑を通達すればいい。

また、
「死んだ人間は生き返らない。死刑にしても何も解決しない」
という人もいるが、これは大きな間違いだ。

死んだ人間はもちろん生き返らない、それは合っている。

ただ、何も解決しないことはない。

被告人が死んでくれた事で十分解決する。

遺族は被告人が死んでくれれば、精神が少しは救われ、今後の人生に多少希望がもてるのだ。

考えてもみてくれ、殺された遺族がテレビに出演した際、
「極刑を望む」
とは言っても
「一刻も早く更生して欲しい」
なんて言う人はまずいない。

遺族からしてみれば被告人の更生など全くの無意味であり、被告人に一刻も早く死んで欲しいのだ。

また、裁判で
「深く反省している」
という被告人の発言をよく聞く。

深く反省しているにも関わらず、簡単に控訴する。

真の反省とは言われた刑に素直に従うことで、不服だからいって控訴することではない。

量刑は本事件を過去の事例等に照らし合わせて決めているもので、裁判官が下す判決は妥当だと言える。

判決が不服だと言って控訴する自体、反省していない証拠だ。

よく「裁判は公正に」と言われるが、殺人の場合、もちろん被告人しか出廷できないので、すでに公正ではない。

被告人の意見を一方的に聞くだけの理不尽な裁判であり、もちろん殺された人間は自分の意見を何一つ述べる事は出来ない。

真の公正を目指すなら、被告人の反省の弁を聞くかわりに、殺された人間に代わって代弁する遺族の主張も聞き入れなければならない。

その相互の意見をもとに、刑の量刑を決定しなければいけない。

殺人を犯した側の反省してもいない反省だけを聞き、罪が軽くなるという事を納得できる人がはたしているだろうか。

今まで述べた事に納得いかない方も沢山いると思う。

あくまでも私個人の意見なので、ご了承願いたい。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★☆☆☆☆
・残虐度 ★★★★☆☆☆☆☆☆
・異常性 ★★★★★☆☆☆☆☆
・特異性 ★★★☆☆☆☆☆☆☆
・殺人数 1人

《犯行期間:1976年12月14日》