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バールーフ・ゴールドシュテイン (パレスチナ)
【1956~1994】



バールーフ・カッペル・ゴールドシュテインは、1956年12月9日 (一説には12日) 、アメリカ・ニューヨーク州ニューヨークのブルックリンで生まれた。


ゴールドシュテインの両親はユダヤ教徒で、元々の名前をベンジャミンといったが、よりユダヤ的なバールーフに改名した。


祖先にはラビのシュネウル・ザルマン (ハバド・ルバヴィッチ運動の祖) や、ユダヤ神秘思想家のイェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル等がおり、生粋の宗教一家であった。


1968年、ゴールドシュテインはわずか11歳でユダヤ防衛同盟 (JDL) の創立に参加する。


その後、イェシヴァ大学に進み、アインシュタイン医科大学を経て、医師となる。


ゴールドシュテインはイスラエルに移住し、医師としてイスラエル防衛軍に参加したが、ユダヤ人以外は (たとえ友軍の兵士でも) 診察しないとの方針で批判された。

軍法会議にかけられた時、ゴールドシュテインは

「非ユダヤ人を診るのは気が進みません。私の師は、マイモニデスとメイル・カハネの2人だけです」

と明言している。


軍医としての兵役を終えると、ヘブロン近郊に住み着き、主任医官として働いた。


1994年2月25日午前5時、800名ものムスリムのパレスチナ人が、1日5回の礼拝の最初の祈りを捧げる為、建物の東の門から入場する。

ゴールドシュテインは陸軍の制服を着用し、イスラエル製アサルトライフルと、35発入りの弾倉4個を携行し、ムスリムの集まっている「イサクのホール」に侵入した。

警備を行っていたイスラエル軍の兵士は、ゴールドシュテインを呼び止めなかった。

それはゴールドシュテインが「イサクのホール」の隣のユダヤ教徒の区画で、礼拝をしに来た兵士と思われた為であった。


ゴールドシュテインは洞窟からの唯一の出入口の前、礼拝を行うムスリム達の背後に立つと、ムスリム達に向かいライフルを乱射。

29人を殺害し、125人を負傷させた。


ゴールドシュテインは、その場に生き残っていた他のムスリム達に取り押さえられ、暴行を加えられて撲殺された。


事件後の報道には多くの混乱が見られた。

特に、襲撃はゴールドシュテイン単独の犯行か、他に共犯者がいたのではないかという誤報が流れた。

例えば、目撃者の証言として、
「軍の制服を来たもう1人の男が、ゴールドシュテインに弾薬を手渡していた」
という話が報じられたこともあった。

また、ゴールドシュテインがムスリム達に手榴弾を投げつけたと報じられたこともあった。

パレスチナ人の指導者ヤーセル・アラファートは、襲撃はイスラエルの予備役兵の部隊を含む12名により実行されたと主張した。

しかし、イスラエル軍や後に設置された調査委員会による調査により、洞窟の警備に当っていたイスラエル軍が、ゴールドシュテインを援護したり、故意に犯行を黙認したことはなく、ゴールドシュテインは単独で襲撃を実行したこと、また、手榴弾は使用されなかったことが明らかになった。



∽ 総評 ∽

ゴールドシュテインの起こしたこの事件は、「マクペラの洞窟虐殺事件」「ヘブロン虐殺事件」「アブラハムのモスク虐殺事件」「プリム虐殺事件」等と呼ばれている。

29人というの数字は、瞬間大量殺人としては歴代6位の記録であるが、今尚、その動機がよくわかっていない。

宗教的要素を多く含んでいる為、ゴールドシュテインはシリアルキラーというよりも、どちらかと言うとテロに近い。

ゴールドシュテインは単独犯で、襲撃は計画から実行まで、周囲の誰にも打ち明けることなく1人で行われた。

複数人による犯行だと、事件後に騒がれたのは、その用意周到ぶりや殺人数などが、とても1人で行われたと思えなかったからだろう。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★☆☆☆
・残虐度 ★☆☆☆☆☆☆☆☆☆
・異常性 ★★★☆☆☆☆☆☆☆
・特異性 ★★★★☆☆☆☆☆☆
・殺人数 29人
(負傷者125人)
《犯行期間:1994年2月25日》