ジョン・ムハンマド (アメリカ)
【1960~2009】
ジョン・アレン・ムハンマド (旧姓ウィリアムズ) は、1960年12月31日、ルイジアナのバトンルージュで生まれた。
父親のジェームスは鉄道のレール敷きの仕事に就いていた。
母親のミルティスはムハンマドが4歳の時に乳癌で死亡している。
父親は仕事柄、ほとんど家にいなかったので、ムハンマドの面倒は叔母が看てくれていた。
この叔母は面倒見が良くとても良い人で、しかも叔母の仕事先の家も裕福だったので、何不自由なく育ったムハンマドは明るく外交的な性格だった。
1979年、高校を卒業したムハンマドはルイジアナ州の軍隊に入隊する。
1981年、州軍で勤務していたムハンマドは、高校時代から交際していたキャロル・A・ウィリアムズと結婚し、翌1982年には息子のリンドバーグが生まれるが、1985年に別居する。
1985年、ムハンマドはイスラム教に改宗し、後に『ネーション・オブ・イスラム』にも参加した。
軍隊で7年勤務した後の1986年、戦闘地域への現役任務に志願し、翌1987年イスラム教国に配属された。
同年、ウィリアムズとの離婚が成立している。
1988年3月、ムハンマドは2度目の結婚をし、その後3人の子供を持つ事になった。
当時の近隣の住人の証言によれば、その家族は円満そのもので、幸せな家庭の典型的な様子だったという。
しかし、ムハンマドは実は家庭においては死人のようだったと、結婚相手であるミルドレッドが後に証言している。
ムハンマドは軍隊では整備士やトラックドライバーなどの軍務に就き、歩兵連隊のライフルの名手のバッヂをもらっている。
ムハンマドの軍隊での成績は最高レベルであった。
1994年、ムハンマドは軍曹だったが『湾岸戦争』後、除隊させられてしまう。
理由は、ムハンマドは狙撃手として軍内でも1、2の腕前であったのだが、上官に対して反抗的で問題児だった為だった。
最終的には上官を殴ってしまい、除隊になったのだった。
しかも1999年、2度目の結婚生活も破綻してしまう。
同年、離婚していたムハンマドは、離婚した妻の元から自分の子供たちを誘拐し、アンティグアに連れて来る。
ムハンマドが後の共犯者であるリー・ボイド・マルボと親しくなったのはこの時だと言われている (ちなみにマルボはムハンマドの義理の息子でゲイの相手だった) 。
2001年10月、この時にムハンマドは名前をウィリアムズからムハンマドに変えている。
この頃、元妻のミルドレッドは、自身とミルドレッドの子供たちに対するムハンマドの接近禁止命令を裁判所に与えられている。
しかし、ムハンマドは武器を携えたまま接近禁止命令を破り、元妻や子供達に接近した為、逮捕されてしまう。
そして、ついにムハンマドはマルボと共に凶行に出る。
2002年10月2日17時20分、メリーランド州のモンゴメリー郡アスペン・ヒルのマイクルズ航空機店の窓に銃弾が打ち込まれる。
これがムハンマドの初めての発砲だったが、負傷者は出なかった。
同日約1時間後の18時30分、同じくメリーランド州のホイートンで、プログラム・アナリスト、ジェームズ・マーチン (55歳♂) がウェアハウス食品雑貨店の駐車場で射殺された。
翌日3日7時41分、造園家のジェームズ・L・ブキャナン (39歳♂) が、メリーランド州のロックビル付近で射殺された。
ブキャナンは草を刈っている所を撃たれたのだった。
同日8時12分、タクシー運転手プレム・クマール・ウォルケール (54歳♂) が、アスペン・ヒルで給油中に射殺された。
同日8時37分、家政婦兼ベビーシッターのサラ・ラモス (34歳♀) が、アスペン・ヒルにあるワールドレジャー・ショッピングセンターのベンチで読書をしている所を射殺された。
同日9時58分、メリーランド州のケンジントンコネチカットとノールズ通りの交差点で、掃除をしていたローリ・アン・ルイス・リヴェラ (25歳♀) が射殺される。
リヴェラがこの日の午前中、最後の犠牲者であった。
同日21時15分、元大工のパスカル・シャロット (72歳♂) が、ワシントンD.C.カルミア・ロードからジョージア通りに出た所を射殺された。
銃撃は一定の距離からの発砲と考えられ、全ての犠牲者が一発で殺されていた。
この銃撃がニュースで流れると、ワシントン近郊は恐怖で震え上がった。
多くの親が子供たちを迎えに行き、単独で歩いて帰る事が許されなくなる程であった。
翌日4日14時20分、ヴァージニア州のフレデリックスバーグのデザイン・クラフトストアの駐車場で、荷物をミニバンに積み込んでいたキャロライン・シーウェル (43歳♀) が銃撃に遭う。
シーウェルは負傷はするも、一命は取り留めている。
同年10月7日8時9分、メリーランド州のベンジャミン・タスカー中学校前で、イラン・ブラウン (13歳♂) が撃たれる。
弾丸は胃と胸の間を通って下腹部から外に出ていた。
しかし、ブラウンはちょうど学校に着いた所を銃撃されたのだが、送ってくれた叔母が、偶然看護婦だったことが幸いし、助かった。
ブラウンは後にムハンマドの裁判で最終的な証言をする事になる。
同年10月9日20時18分、ヴァージニア州マナサスで、ガソリンスタンドにガソリンを輸送していたディーン・メイヤーズ (53歳♂) が射殺された。
同年10月11日9時40分、ヴァージニア州のフレデリックスバーグ付近にあるエクソン・ステーションに燃料を輸送していたケニス・ブリッジズ (53歳♂) が射殺される。
同年10月14日21時15分、ヴァージニア州のフォールズチャーチのセブンスコーナー・ショッピングセンターで、リンダ・フランクリン (47歳♀) が、夫と買い物し、終わった直後、射殺された。
この犠牲者は、ヴァージニア州アーリントン郡在住のFBI情報分析官だった。
数分後の21時19分、ヴァージニア州のシュランドのステーキハウスの駐車場で、ジェフリー・ホッパー (37歳♂) 撃たれるが、一命を取り留める。
また、当局は付近の森で4ページもの手紙を発見している。
同年10月21日、リッチモンド広域警察はガソリンスタンドの外で白いバンに乗る2人組の男性を逮捕した。
ただ、この2人はムハンマドとマルボではなく、別の人物だった。
しかし、ここで注目すべきは、この時点で警察は犯人はバンに乗る2人組の男性だと判断していた事だ。
翌日22日17時55分、メリーランドのアスペンヒルにおいて、バス運転手コンラッド・ジョンソン (♂) が、バスのステップの上に立っている所を射殺された。
この時、捜査班が置き手紙を部分的に発表する (なぜ部分的なのかはわからない) 。
そこには、
「どこでも、いつでも、ナたち (お前たち)らのワラはど (子供たち) は無事ではねー」
という内容であった。
翌日の23日、この日は銃撃はなかったが、警察は弾道検査の結果、ジョンソンがベルトウェイ銃撃の10人目の犠牲者だったことが確実になった事がわかった。
また、ワシントンのタコマを金属探知機で捜査した所、射撃訓練の為に使われたと思われる木の株が押収された。
警察は公には発表を控えていたが、犯行がムハンマドとマルボであると睨んでいた。
また、ムハンマドがニュージャージー州で購入した自動車についても情報収集していた。
そして、同年10月24日、ムハンマドとマルボはメリーランドのマイヤーズヴィル付近のインターステートで車内で仮眠をとっているところを発見され、FBIに武装突撃され、ついに2人は逮捕された。
2003年10月、ムハンマドはヴァージニア州のマナサスで発生したディーン・メイヤーズの殺人の罪で裁判にかけられた。
ムハンマドは、殺人、テロ行為、陰謀、銃の違法使用などの罪により、死刑宣告を受けた。
2006年5月30日、メリーランド陪審は、ムハンマドを殺人の6つの訴因で有罪であると判決を下した。
そして、同年6月1日、仮釈放の可能性なしの終身刑が宣告される。
アラバマ州とワシントン州は起訴を断念したが、ヴァージニア州だけは殺人に対してムハンマドに死刑宣告を下した。
その後、カリフォルニア州、アリゾナ州、テキサス州での殺人もマルボが認め、犠牲者の数は全部で17人となった。
2009年9月16日、ヴァージニア州の裁判官が、ムハンマドの死刑執行日を、2009年11月10日に設定する。
ヴァージニア州法では、処刑方法を自ら選択できるのだが (電気椅子か薬殺) 、ムハンマドは方法選択を辞退したので、法律により薬殺が選ばれた。
ムハンマドにはスペシャル・ミール (最後の特別な食事) を提供され、ムハンマドは受け入れたがその内容の公表を拒否している。
後日、ムハンマドの弁護士がAP通信に明かしたのは
「鶏に赤きソースと何かのケーキ」
だけだった。
2009年11月10日、21時に死刑執行が開始され、21時11分に死亡が宣告された。
享年48歳。
ムハンマドは最終的な声明を発言するのを拒否した為、ムハンマドが最後何を言いたかったのかはわからない。
ムハンマドは火葬され、その遺灰はルイジアナでムハンマドの息子に渡された。
∽ 総評 ∽
『D.C.スナイパー』と呼ばれ、ワシントンを含む近郊を一時期恐怖のどん底に陥れたムハンマド。
ムハンマドとマルボの起こしたこの連続射殺事件は「ベルトウェイ銃撃事件」と呼ばれている。
この事件が起きた時、私は常にラジオが流れている職場で働いていたのだが、この事件は毎日ラジオのニュースで取り上げられ、衝撃を受けたのを覚えている。
当時は、「白人男性の犯行」と言われていたのだが、逮捕されたのが黒人男性2人組だと分かって驚いた (統計的にシリアルキラーの6割以上は白人男性と言われているので、白人男性の犯行と言っておけば無難ではあるが) 。
ムハンマドの犯行は3週間ほどであったが、いつどこから狙撃されるかわからないという恐怖は尋常ではなく、当時のワシントン近郊はおちおち外も歩いていられない状態であった。
実際、当時のワシントン周辺は、厳戒態勢がしかれていた。
ムハンマドの犯行の異質な所は、一瞬で乱射して大量に殺人を犯すスプリー・キラーとは異なるし、かといって何年にも渡って殺人を繰り返す快楽殺人ともまた異なる所だ。
また、ムハンマドがここまでの凶行に至った理由がよくわからない。
離婚が引き金になっているのは間違いないが、連続射殺事件を起こすほどの理由になるとは思えない。
結局は本人しかわかりえないことだが、ムハンマド本人はすでに処刑されているので、今後、その深層に迫る事は不可能である。
【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★★☆
・残虐度 ★★☆☆☆☆☆☆☆☆
・異常性 ★★★★★★★★☆☆
・特異性 ★★★★★★★★☆☆
・殺人数 17人 (他負傷者多数)
《犯行期間:2002年10月2日~同年10月23日》
コメント
コメント一覧 (4)
私はコナンに詳しくないですが、コナンが真似したのか、コナンの歴史を考えればコナンの内容にたまたま似た事件が起きたのか、なんとも言えませんね。
犯人が2人組
主犯が米軍を軍法違反によって首になった元狙撃手
プライベートのことで問題を抱えていた
等の共通点があったそうです
なんとなくコナンの脚本家がこの事件を参考にしたような気がしますね
それは似ていますね。
参考にした可能性が高いですね。
「事実は小説より奇なり」とはよく言いますが、実際の事件を題材にした映画や小説は非常に多いですからね。