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フリッツ・ハールマン (ドイツ)
【1879~1925】



本名フリードリヒ・フリッツ・ハインリヒ・カール・ハールマンは、1879年10月25日、ドイツ・ハノーバーで生まれた。


父親は権威主義的な教育スタイルをとり、母親はハールマンを甘やかした。

父親が権威的・権力的に教育することは、この時代では普通の事であり、特に珍しいということはない。


幼少時代にハールマンは、兄から長期間にわたる性的虐待を受けた。


ハールマンは機械工の見習い修業を終えると、1895年から軍の士官学校に通った。

丁度この頃、日射病に罹ったような幻覚を生じ、同じ症状が再度起こったので、ハールマンは退学を願い出た。

ハールマンに何故このような症状が生じたかはわからないが、すでにハールマンには危険な症状が現れ始めていたのである。


父親に入れられた葉巻工場の仕事に就いたハールマンは、近所の子供たちへの性的虐待を繰り返した。

逮捕されたハールマンは、
「矯正できない意志薄弱」
と認定されてヒルデスハイムの精神病院に収容された。

ハールマンは何度も逃げるようにスイスで過ごし、1899年に戻ってきた。


1900年には軍隊に招集され、コルマールに配置された。

そこでハールマンは失神の発作を起こし、4ヶ月間感染症病院に入院した。


ハノーバーに戻ると養育費に関して父親を告訴して、2人は親子でつかみ合いの喧嘩をした。


1905年にハールマンは性行為感染症に罹り、これをきっかけに駅をうろつく若い浮浪者や家出少年たちを相手とする同性愛となっていた。

この時からハールマンの犯罪歴が始まり、17件の有罪判決に至った横領、窃盗、不法侵入、盗品売買等、数々の犯罪を犯した。

多くのシリアルキラーは、殺人を犯す前に数々の犯罪を犯す為、その時の犯罪歴から身元が割れ、捕まることが多い。


第一次世界大戦中は刑務所で過ごした。

そして出所後、旧市街地の歓楽街の一角、ローテ・ライエ通りの屋根裏部屋に住んだ。


1919年、ハールマンは同性愛の関係を通してハンス・グランスと知り合った。

このグランスとの関係が後の凶行に拍車をかける。

そして、この年からついにハールマンは殺人を始める。


第一次世界大戦が終結したドイツ国内は混乱をきたし、貧困層が増大し、社会は荒廃しきっていた。

ホームレスが増え、ハールマンはグランスと共にそのホームレスの少年を拐っては2人がかりで少年を強姦する。

そして、ハールマンは少年の首を噛み千切って殺した。

殺害した死体を2人は解体し、その肉を闇市場に持ち込み「豚肉」として売った。

肉屋は疑うことなくこの豚肉をハールマンから買い、一般の客に販売。

客は先を競ってこの肉を買い求めた。


この時、多くの家庭ではこの「豚肉」は食卓に並び、食したはずだ。

人々は「豚肉」を「人肉」と知らずに食べていたのである。
(しかし、これはあくまでも噂で、裏付ける決定的証拠はない。近所のレストランを所有する女性が、ハールマンから肉を買ったのは明らかになっている。ただし、その肉を客に提供したかは不明)


ハールマンもこの人肉を日常的に食べていた。


ハールマンにとって、大戦後の混乱で溢れたホームレスの少年を拐って、好きなだけレイプし、殺して解体し肉屋に売る。

快楽も満たされ更にお金も手に入る。

大戦後の混乱したドイツ国内は、ハールマンにとってこれ以上ない最高の場所であった。


結局、ハールマンは1919年から1924年にかけて、少なくとも24人を殺害し、その肉を売った。


逮捕のきっかけは、ハールマンがライネ川から多数の白骨化した遺体を流し、それが下流に流れ着いたことであった。

実は警察は以前から少年への猥褻行為でハールマンに目をつけており、捜査線上に上がったことにより逮捕に至ったのである。


ハールマンの裁判は見せ物となり、ドイツ国内においてマスコミが大々的に報じた初の大事件の1つであった。

当時「シリアルキラー」という言葉は存在せず (シリアルキラーはテッド・バンディを称する為に作られた言葉) 、大衆やマスコミはこの事件を称する言葉が見出だせなかった。

ハールマンは「狼男」「吸血鬼」と称され、また「性的サイコパス」とも呼ばれた。


1924年12月19日、ハールマンは有罪判決を受け、1925年4月15日、ハノーバー地方裁判所の刑務所内で、ギロチンにより死刑が執行された。

享年45歳。

後に裁判記録を紐解くと、犠牲者数は28人であった。

ただし、ハールマン自身は少なくとも48人は殺したと豪語していた。


ちなみに相棒のグランスは、24件の殺人の1つを教唆したとして有罪となり、同様に死刑を宣告された。

しかし、グランスの無実を明言するハールマンの手紙の開示により、2審では12年の禁固刑となった。

その後、グランスは刑期を務め上げ、1975年に、亡くなるまでハノーバーのリックリンゲンに住み続けた。


ハールマン処刑後、ハールマンの脳は、構造を調べる為、科学者により保存された。

ハールマンの頭部はゲッティンゲンの医科大学に現在も保管されている。

また脳から切り取られた4つの断片が、ミュンヘンに保存されている。


このハールマンの事件は、ドイツで死刑、精神疾患のある犯罪者に対する正しいアプローチ、警察の捜査方法、同性愛について多くの議論を引き起した。



∽ 総評 ∽

ハールマンは第一次世界大戦後、ナチスドイツ時代の混沌としたドイツで誕生した殺人鬼だが、実は同時代にドイツ国内で同じような殺人鬼が多数誕生している。

それは、カール・デンケとゲオルグ・カール・グロスマンであり、3人に共通していることは、カニバリズム (食人) ということだった。


ブライアン・マリナーは自身の著書『カニバリズム』の中で、次のように記述している。

「グロスマン、デンケ、そしてハールマンの事件は『時代が犯罪を生む』という格言を実証してみせた。3人とも人肉を食べたか、あるいは何も知らない隣人に食べさせたかのどちらかであり、しかも、その犯行はほぼ同時に行われた。この3件はどれも第一次大戦後のドイツで起きた。ドイツが経済的にも精神的にも破綻状態にあった時代だ。旧秩序が崩壊し、伝統的な道徳が忘れられ、全ドイツが価格の急騰と物不足に喘いでいた。その為、闇屋と闇市の時代だった。人々はパンを求めて幾列にも並び、肉はほとんど入手不可能な貴重品となった。人々は生活の基盤を失い、住む家も失った。こうした人々は大量の浮浪者となり、全ドイツは無法地帯と化した」


時代と犯罪は比例しているところがあり、混沌とした時代には異常な犯罪が多くなる傾向にある。

実際、日本でも戦後まもない混乱した時代には、殺人件数が増加し、約1300~2000件と、現在の約4倍~6倍も多かった。

しかも、人口は今の約半分だったことを考えると、いかに当時が異常だったかが理解できる。


この時代のドイツは、世界的に見ても異常で、前述した3人以外にもペーター・キュルテンや、時代は少し古いがアドルフ・ルートガルトなど、猟奇殺人者が相次いだ。

これらの猟奇殺人者達の宴は、まるで後のナチスドイツが行う凶行の前座のような気がしてならない。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★★☆
・残虐度 ★★★★★★★☆☆☆
・異常性 ★★★★★★★★☆☆
・特異性 ★★★★★★★☆☆☆
・殺人数 28人
(本人は48以上と自供)
《犯行期間:1919年~1924年》