ケネス・ビアンキ (アメリカ)
【1951~ 】
アンジェロ・ブオーノ (アメリカ)
【1934~2002】
ケネス・アレッシオ・ビアンキは、1951年5月22日、ニューヨーク州ロチェスターで生まれた。
母親は売春婦で、ビアンキが生まれた2週後に養子に出された。
シリアルキラーに多く見られる、私生児としてビアンキは誕生したのだが、後のビアンキはこの事を
「見放された」
と語っている。
ビアンキはロチェスターで、フランセスとニコラスのビアンキ夫婦に引き取られるのだが、ビアンキは幼少時から手を焼く子供であった。
養母はビアンキのことを
「衝動的な嘘つき」
であると言っている。
平均以上のIQを持つにもかかわらず、ビアンキはカッとしやすい性格で、学校では不良だった。
1964年、肺炎でニコラスが死ぬと、フランセスはビアンキをハイスクールに通わせる為に働くようになる。
ビアンキは高校を卒業した直後の1971年、高校の時に出来た恋人と結婚した。
しかし、妻は突然家出し、結婚生活は8ヵ月で終わってしまう。
ビアンキは大学を第1シーズンで中退し、社会人として退屈な日々を送った。
そして、ビアンキは宝石店の警備員となった。
これはビアンキに貴重品を盗む大きな機会を与えてしまう。
結局、たくさんのつまらない窃盗の為、ビアンキは絶えず警察の世話になっていた。
1975年、ビアンキはロサンゼルスへ引っ越し、そこで年上の従兄弟であるアンジェロ・ブオーノと会う。
ブオーノは、どんな女性でもつかまえ服や宝石を貢がせ
「彼女らに身のほどを思い知らせる」
才能が自分達にあることをビアンキに語った。
まもなく、2人はヒモとして生計をたてることになり、そして、1977年後半までに、それは殺人にまで発展する。
アンジェロ・ブオーノ・ジュニアは、1934年10月5日、イタリア系移民の子としてニューヨーク州ロチェスター生まれる。
ビアンキとは17歳も離れた従兄弟であった。
名前の由来は『聖ブオノ』からとられたという。
ブオーノは14歳で少年院送りになり、初婚は20歳の時だったが、妻に残虐と言っていいほどの暴力を奮った。
ブオーノは肛門姦を好む性癖があった為、その後、3回も結婚したがいずれもうまくいかなかった。
40歳で内装工場を開き、業績は順調で、繁盛してからは暮らし向きは良くなったが、相変わらず粗野で残忍な性格だった為、10代の少女を言葉巧みにたぶらかすのが趣味だった。
ビアンキと再会したのは、工場開設の翌年、1975年の事である。
1977年10月18日、2人は娼婦を拾って自宅に連れ帰り、輪姦と肛門姦のあと、ビニール袋を頭にかぶせ、最後に手で絞殺した。
そして、遺体を小高い丘の上にある「フォレスト・ローンズ墓地」に捨てた。
次の被害者は失業中のダンサーで、2人は警察だと偽って彼女を自宅まで連行し、そこで手錠をかけて彼女の衣服を切り裂いた。
2人は彼女を清涼飲料水の瓶で辱め、首を絞めて失神させてはまた蘇生させ、また絞めるという残虐な行為を繰り返し、最後には絞め殺した。
その数日後、ビアンキはバス停で知り合った女子学生を家へ連れ込み、ビニール袋を頭にかぶせて強姦し、自分の快感と彼女の窒息死が同時に訪れるよう計算した。
同年11月に入り、2人は今度は子供を狙おう、と意見を一致させた。
2人は12歳と14歳の少女が万引きしたのを見つけ、警察の者だと言って同行させた。
少女たちは2人に強姦され、殺された。
また、ビアンキが
「以前俺をふった女に復讐したい」
と言ったので、ブオーノは喜んでこれに協力した。
2人はビアンキをふった彼女を誘拐し、輪姦したのち、洗浄液を注射した。
しかし彼女は死ななかったので、頭にかぶせた袋に石灰ガスを吹き込みながら、手で絞殺した。
2人は被害者の遺体をロサンゼルス地区のヒルサイド (山腹) に放置したことから、警察・マスコミは
『ヒルサイド・ストラングラー (丘の上の絞殺魔) 』
と呼んだ。
同年11月28日、2人は不倫の情事のあと帰宅途中の女性を掴まえ、自宅で輪姦。
体に電流を流したが死ななかったので、絞殺した。
12月に入って、斡旋所から呼んだ売春婦を強姦、殺害。
1978年2月、ブオーノの工場を訪れた20歳の女性を誘拐し、自宅で2時間にわたって凌辱と肛門姦を加えた末、絞殺。
死体は彼女自身が乗ってきた車に押し込み、崖下に墜落させた。
しかしこの頃になると、ブオーノはビアンキのあまりのだらしなさと無責任さに愛想を尽かしていた。
ビアンキの恋人が里帰りしたのをきっかけに、ブオーノは
「おまえも彼女についていったらどうだ」
と言った。
ビアンキは自分が厄介払いされることに気づき、傷ついた。
ブオーノはそれまでビアンキにとっての憧れの対象であり、ヒーローだったのだ。
ブオーノに裏切られ、怒りと失望にかられたビアンキは
「ブオーノの援助無しでも、俺はひとりで殺人ができる」
と考え始め、それこそが自分の独立の証だと思い込んだ。
ビアンキは1979年1月、元同僚の女性とそのルームメイトとに
「就職を斡旋する」
ともちかけ、ふたりとも強姦して殺した。
しかしこの元同僚の女性は、ビアンキとの
「誰にもこのことは言わない」
という約束を守らなかったので、ただちにビアンキは逮捕される羽目になった。
拘置所でビアンキはブオーノに
「きみのことは一言も言わないから」
と匂わせた手紙を送った。
ブオーノがここで下手に出れば、ビアンキはかつての英雄崇拝の気持ちを思い出してブオーノをかばったのかもしれない。
しかしブオーノは激怒し、
「余計なことを一言でも言ったら、てめえの家族 (この時、ビアンキは恋人と結婚しており、子供もいた) を皆殺しにしてやる」
と書き送った。
ビアンキはこれを読み、ブオーノを警察に売る決心を固めた。
ビアンキは裁判で
「自分は幼少時、虐待された」
と言い、
「そのトラウマで多重人格となった。殺人を犯したのは俺の別の人格だ」
と主張した。
だがビアンキの「多重人格演技」は数人のセラピストは騙せたものの、検察側の用意した精神科医を騙すことはできなかった。
ビアンキに人格分離の前歴がないこと。
別人格の登場の仕方が大袈裟すぎ、支離滅裂であること。
「本物の多重人格なら3つ以上の人格を持っているはず」
と指摘された途端、第3の人格を発現させてみせたこと。
逮捕されて間もなく、TV映画の『シビル』を観ていることが確認されたこと等、ビアンキから次々とボロが出た。
詐病をあばかれたビアンキは仕方なく、ブオーノに不利な証言をする代わりの減刑取引を要請し、終身刑を受けた。
ブオーノも終身刑となった。
ただしビアンキは5件の殺人について有罪だったが、ブオーノは7件について有罪とされた。
ビアンキに好意を抱く1人の女性、ヴェロニカ・リン・コンプトンは、殺人鬼マニアで、ビアンキにインタビューしてそれを出版しようと考えていた。
コンプトンはこの後、色々話題を振りまくのだが、コンプトンついては後日、掲載したいと思う。
また、ブォーノも「フリーウェイ・キラー」と呼ばれた殺人鬼、ウィリアム・ボーニンを刑務所内でリンチしたりと、なにかと話題に事欠かなかった。
何が気に入らなかったのかわからないが、異常者同士でも相容れない所があるのだろう。
ちなみに以前、掲載したランディ・クラフトは、同じ「フリーウェイ・キラー」として、ボーニンとは仲が良かった。
2002年9月21日、ブオーノは死刑執行を待たずして心臓発作で死亡する。
享年67歳だった。
∽ 総評 ∽
1977年~79年にかけて、ロサンゼルスを震撼させたビアンキ&ブオーノだが、最後は異常者らしく醜い争いを起こし、捕まってしまった。
本件の2人に限らず、2人以上で犯罪をおかす場合、仲違いや裏切りにより捕まる事は多い。
所詮、異常者同士の繋がりなので、そんなものかもしれないが、複数による犯罪の場合、被害が短期間で多くなり、異常性を帯びていく事があるので、すぐにボロが出るといえど油断はできない。
同じ性癖同士や夫婦やカップル、といった繋がりによる凶行は多々あるが、ビアンキとブオーノのように従兄弟で殺人を繰り返すというのは非常に珍しい。
もしかすると、2人の家系は遺伝子的に少し問題があるのかもしれない。
【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★☆☆
・残虐度 ★★★★★★★★☆☆
・異常性 ★★★★★★★★☆☆
・特異性 ★★★★★★★★★☆
・殺人数 12人
《犯行期間:1977年10月18日~1979年1月》
コメント
コメント一覧 (4)
しかしこーゆー奴らなのにしっかり結婚して子供もいるとか…もちろんよくあるパターンなのですが信じられませんよね。
やっぱりスケベでガツガツしてないと子孫残せないんですかね
よくありますね。
妻が全く気付いてない事も多々ありますからね。
しかも、被害者の中には映画俳優の娘さんまでいるのにはさらに衝撃的でした。
さっさと処刑しておけばよかったのに。
昔、彼らを題材にした映画を観た事あるのですが、あんな事が実際に行われたと思うと戦慄が走ります。
1970年代はアメリカはシリアルキラーが暗躍した恐ろしい時代でしたね。