image



















デビッド・コレシュ (アメリカ)
【1958~1993】



本名バーノン・ハウエルは、1958年8月17日、テキサス州ヒューストンで生まれた。


コレシュ出産当時、母親はわずか15歳で未婚だった為、祖父母に育てられた。


コレシュは多くのシリアルキラーにみられる、私生児とし誕生したのである。

父親は不明だが、コレシュは後に子供の頃は孤独だったと述べている。


失読症で高校を卒業できず中退。

ただ、音楽の才能と聖書への関心では他人に抜きん出ていた。


12歳でほぼ聖書を暗唱し、13歳時には『新約聖書』の主要な部分を丸暗記するほどであった。

幼少の頃から聖書に興味を持ち、暗唱出来る点は、以前掲載した『人民寺院』のジム・ジョーンズに非常に似ている。


17歳で自分がキリスト (救世主) であるという妄想を抱く。


大学を卒業したコレシュは、アルバイトしながらテキサスを転々とする。

信仰心は強かったが、狂信的ということで、熱心に通っていた教会を出入り禁止になる。


ヘビメタが好きだったコレシュは、ロックスターをめざしてハリウッドに出るが、芽が出なかった。


仕事にも就くが聖書の話ばかりしていて首になることが続き、そんな時、1981年にキリスト教系カルト教団『ブランチ・ダビディアン』に入信する (当時の教団信者は1400人) 。


コレシュは教団内で出世し、短期間で教団内で力をつける。


そして教祖が死に、その息子とコレシュは激しく対立する。

この対立は銃撃戦にまで発展し、コレシュが正式に『ブランチ・ダビディアン』のトップに就任する。

この時に「デビッド・コレシュ」と名乗るようになるのだが、コレシュというのは、「バビロン捕囚」からユダヤ人を解放した、ペルシャ皇帝キュロス2世のキュロスをヘブライ語に訳したもので、デビッドは「ダビデ」のことであった。


コレシュは『ブランチ・ダビディアン』の教義に加え、

「最終戦争によって世界が終わる」

という終末思想を盛り込んだ。

そして、世界が終わる前には強力な「敵」が教団の前に現れるというのである。

「その敵と戦う為には教団を武装化しなければならない」

とコレシュは信者たちに強く説いた。


1993年2月、信者たちは大量の武器を買い集め、教団の拠点を要塞化するのに奔走し、その中に立て籠った。

就任後、間もない司法長官ジャネット・リノは、信者の子供を虐待しているとして、攻撃命令を下した (後に長官はこの攻撃命令は失敗だったと認めている) 。


ATF (アルコール・タバコ・火器局) が、1993年2月28日、銃器不法所持容疑で強制捜査しようと100人の武装したチームを突入させる。

しかし、コレシュはこれを

「敵の攻撃だ」

と断定し、信者たちに命令して捜査官たちに向けて銃を乱射。


ATF側も応戦して激しい銃撃戦となったが、その結果、捜査官4人が死亡、24人が重軽傷を負った (後日、4人の捜査官を殺害したとして起訴された11人の教徒は、「正当防衛」で無罪になっている) 。

教団側も6人の死者を出した。

これにより、ATFから捜査の管轄がFBIに移行する。


コレシュはこの日の夕方、CNNに生出演し、自分は7つの封印を説くことが出来る唯一の「神の子羊」であり、この戦いは世界最終戦争の前哨戦だと語った。


3月2日には手榴弾を体に巻き、

「自殺してやる」

とテレビカメラの前で叫んだりもした。


その後、地元ラジオ局に対し声明を放送すれば教団内の子供を解放するとの取引を持ちかけ、4人を解放する。


FBIは延べ215時間、754回にわたって電話交渉を続けた。

応対はコレシュ本人が多かったが、ハーバード出身の弁護士ウェイン・マーティンや、側近のスティーブ・シュナイダーも交渉に応じた。

大抵はコレシュが自らの教義を延々とまくし立てるだけで終わり、話しは遅々として進まなかった。


行動科学課の精神分析医ピーター・スメリックは、コレシュが
「サイコパスであり、他人の非難を一切受け入れず、小さなことで激怒する独善的人物」
とプロファイルした。

その為、教団以外の場では信者への支配権を失うのを恐れ、強行策をとった場合には信者に集団自決を命じる可能性を指摘する。

よって、強行策ではなく、信頼関係を構築しながら少しずつ妥協するのが良いとした。


結果的に見れば、このスメリックの分析は的確で当たっていたのだが、司法省はこの意見を採用しなかった。

スメリックは上司に、プロファイルが無視されたことに、
「失望した」
と後に語っている。

事件後、司法省はスメリックの警告を無視して失敗した事について一切の言及がなかった。


現場から2kmほど離れたところにマスコミ村ができ、記者や野次馬めあてに屋台が出きるほどであった。

隣接する土地を所有する男性が望遠鏡を設置したところ、長い行列が出来た。


現場では、1ヶ月以上にわたる膠着状態の中、様々な交渉が試みられたが、コレシュ側が1年以上の食料と水を蓄えていた為、交渉は完全に手詰まりになった。


教団施設内には水洗トイレがなく、信者は狙撃を恐れ汚物を窓から投げ捨てていた為、伝染病の発生が危惧された。

司法長官リノは
「教団が子供を虐待している」
とのFBIからの報告を受け、強行策を決断。

「それ以外に選択肢はないのか?」
と当時の大統領クリントンに問われ、司法長官リノは
「最良の選択です」
と答えた。

結果的にはそれは、最良の選択では到底なかった。


1993年4月19日早朝、81人の信者 (25人の子供) が施設内にいた。

FBIは170人の捜査官と2台の戦車で教団の要塞を包囲。

教団側も銃で応戦した。


FBIは戦車の砲撃で要塞に穴を開け、その中から催涙ガスを噴射し、信者たちを炙り出そうとする。


要塞内ではコレシュによって集団自殺が命令されていた。

自殺に同意しない信者は殺害され、5人の子供を含む17人が射殺。

2歳の子供がナイフで刺し殺された。

そして、コレシュは含む80人の信者を道連れに自殺。

10数名が逃げ延びた。


信者のほとんどは焼死と見られているが、事件後、火を放ったのが誰かが問題になった。

放火したのは信者の1人で、「聖なる火」で戦車を破壊しようとした説。
FBIが発射した濃縮催涙弾が可燃性だった為、それに誤って引火したという説などがある (自動小銃らしき発砲の直後に発火した映像が実際に残っている) 。


FBIは一発も実弾は発射していないと主張しているが、マスコミが赤外線カメラでヘリコプターから撮影した映像には銃弾の発射の模様が映っていた。

また信者が脱出しようとしていたところに少なくとも2回の実弾攻撃を加え たという証言がある。


逮捕状の請求や武器の使用に法律違反があった。

信者の1人は昼食を食べていたところを、壁を貫通した砲弾にあたって死亡している。


また、FBIは4月14日に、コレシュが送ってきた降伏の手紙を司法長官に渡さなかった (故意か過失かは不明) 。

内容は、

「刑務所で信者たちに布教ができるよう計らえば投降する」

というものだった。


一連の教団施設攻撃は、適正手続きという点から、政府の対処に問題ありとして批判を浴びた。

FBI長官セッションズは事件当時、汚職問題を抱えてマスコミの袋叩きを浴びており、この事件後まもなく辞任している。


この事件に大きな怒りを抱いた、以前掲載したティモシー・マクベイは、この事件の丁度2年後、オクラホマシティ連邦政府ビルを爆破させている。

もしアメリカ政府が後の脅威を考えて『ブランチ・ダビディアン』を排除したのならば、その為に後に甚大な被害を出した事になり、この排除は明らかなミスだと言える。



∽ 総評 ∽

一般的にはこの事件は
「政府が信教の自由を弾圧した」
と考える人が多く、当時のマスコミも政府批判一色だった。

確かに前述した汚職まみれのFBI長官や、言い訳がましいマスコミへの対応、強引とも思える弾圧を見る限り、政府の方に非があるように思える。


ただし、コレシュの思想は間違いなく危険であり、武装する辺りを見ると、いずれ危険分子になる可能性は極めて高い。

アメリカ政府はそれを予知し、強引な理由で早目に排除しておこうと考えたのかもしれない。


コレシュの1番の失敗は、武装を急いた事である。

大量の武器や弾薬を購入すれば、誰だって警戒するし、ましてそれがカルト教団だとすると余計にである。


『人民寺院』と一緒で、最後は集団自殺で終演を迎えた。

だがそれは、1人では死にたくないという教祖の我が儘でしかない。

ジム・ジョーズもそうだが、自殺するなら勝手に1人でやればいいのである。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★☆☆
・残虐度 ★★☆☆☆☆☆☆☆☆
・異常性 ★★★☆☆☆☆☆☆☆
・特異性 ★★★★★★★☆☆☆
・殺人数 18人
(80人が自殺)
《犯行期間:1993年4月19日》