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ティモシー・マクベイ (アメリカ)
【1968~2001】



ティモシー・ジェームズ・マクベイは、1968年4月23日、ニューヨーク北部で3人兄弟の2番目として生まれる。


ごく普通の家に生まれ、ごく普通の生活を送る。


しかし、マクベイが10歳の時、一家に異変が起こる。

母親が父親と性格不一致を理由に離婚。

母親は裁判することもなく、荷物をまとめて出て行ってしまう。


この出来事に幼いマクベイは、衝撃と共にショックを受ける。

 
学校の成績は良くなかったが、やる気がなかっただけのようで、リージェンツ奨学金を圧倒的成績で獲得している。


中学の頃から、銃に異常なまでの関心を示すようになるが、学校にいた頃、問題を起こしたことはなく、前科などもなかった。


14歳の時、「核戦争に備えて」森の中に大量の食料を持ち込みキャンプしながらサバイバル訓練や銃の射撃練習をしていた (当時、まだ米ソ冷戦状態だったので、マクベイの行動は異常というほどではない) 。


高校の時には付き合っていた女性はいなかった。

学校には1日も休まず行っていたが、かなり痩せていたせいか、クラスメイトにからかわれることがあった。


人間関係は当時から苦手だったらしい。


当時の複数のクラスメートも当時のマクベイを
「シャイだった」
と述べている。


高校卒業後、2年制のコミュニティーカレッジ (短大) に入り、コンピュータを勉強するが

「飽きた」

として中退する。


武装した現金輸送車の運転の仕事に就く。

当時の同僚によれば、やはりマクベイの銃への執着は異常だったと言う。

前を遅い車が走っているとショットガンをもって怒鳴り散らすことがあったほどだった。


次の職は銃のセールスマンだった。


1988年、10エーカー (1Acre=4047平方メートル) の森を高校の時の友人と共同で7000ドルで購入。

それは「生き残る者の隠れ家」だったらしい。 


同年、念願叶って陸軍に入隊。

入隊テストの点数は非常に高く、特に数学や電子工学などの点数が高かった。


マクベイは昇進試験をことごとくクリアしていく。


爆発物を作る訓練の時、製造法をすでに知っていることを自慢していた。

射撃訓練では、ほぼパーフェクトの点数を出し、表彰される程の腕前を持っていた。


ただ、黒人への侮辱的発言が目立った。


同僚に金を貸したり、車で送ったりして金を儲けていた。

酒や女には目もくれず、サバイバル関係の雑誌や映画を大量に繰り返し見ていた。

入隊前に買った森に、軍隊の携帯食料を大量に貯蔵、ドラム缶に水を貯めた。


ある時、妹がマクベイの為に女性を紹介するが、
「照れて赤くなってしまい話し方が不自然だった」
というほどのシャイボーイであった。


マクベイはグリーンベレーを目指し、1日400回の腕立てふせ、40キロの砂袋を背負って走るなどの激しい鍛錬を始める。


1990年11月、グリーンベレーの試験がある予定だったが、湾岸戦争が勃発し従軍のための訓練にかり出される。

戦車に乗ったイラク軍将校を1マイル以上離れた場所から倒すなどいくつかの功績を認められ、勲章を受ける。


ただ、グリーンベレーの試験には落ちてしまい、マクベイは非常に落ち込む。

マクベイへの軍の評価は非常に高かったが、グリーンベレーになれなかった失意から立ち直れず、1991年に軍隊を辞める。


警備員の職に就くが、所有していた森林を

「新しい人生が始まる」

として売り払う。


その年、警備会社では責任者に昇格する。


1992年、マクベイは地元の新聞へ政府への不満を投稿するようになる。


犯罪は増加し、政府は無能。

このままでは、自分が愛する強いアメリカはダメになってしまう。

白人至上主義とアンチ銃規制、政府の否定をスローガンに

「改革に流血は必要だ」

という論文を投稿するようになる。


愛国心といえは聞こえはいいが、白人至上主義という時点で、差別主義になっており、とてもマクベイを擁護できない。

愛国心は本当にあるとは思うが、それよりも、自分が思っている以上に、人生が上手くいってないことへの不満が、国に対する不満に繋がったのではないだろうか。


正直、発想は稚拙で救いようがない。

マクベイなんかよりももっと上手く行ってないのに、必死に頑張って生きている人間はごまんといる。

順風満帆とはいえなくとも、マクベイはむしろ上手く行っているほうで、この程度で挫折しているようでは、どのみち今後の人生もたかがしれていただろう。


実はマクベイの発想は、アメリカ右翼武装集団・ミリシアと同じようなものだった為、マクベイもそのメンバーの一員だったのではないかと噂が流れた。

ただ、実際の所は何の関係もなかったらしい。


1993年、カルト教団「ブランチ・ダビディアン」が教祖と共に武装して立て籠り、FBIとの銃撃戦の末、教団全員が自殺するという事件が起こる。


この事に対しマクベイは、

「国家権力の横暴だ!」

と、その憤りを露にする。

そして、この事件によりマクベイの精神は完全にコントロールを失う。


そして、運命の1995年4月19日、この日をマクベイが選んだ理由は、前述した2年前に起きた『ブランチ・ダビディアン事件』があった日だったからであった。


マクベイにとって『ブランチ・ダビディアン事件』は、相当な衝撃を与えていたことになる。

後にマクベイはジャーナリストに

「政府があの事件について謝罪しないことは、これ以上許せない」

と述べている。


マクベイは軍時代の同僚と結託して、オクラホマシティの連邦政府ビルに爆弾を仕掛け、爆破した。

検察側の立証ではこの時マクベイは、4000ポンド (2トン) トラックを借り、硝酸アンモニウム (化学肥料) を2000ポンド (約900キロ) 積んで、レース用燃料、採石場から盗んだダイナマイト299本 (雷管544本) に点火し、ビルを爆破したという。


この爆破で168人が死亡、800人以上が重軽傷を負う大惨事となり、2001年に起きた『9・11事件』が起こるまで、最悪のテロ事件であった。


逮捕されたマクベイは、裁判で「より公正な裁きを期すため」との理由から事件現場を離れてデンバー連邦地裁で始まった。

これは陪審の偏見を避けるための措置だった。


検察側は、事件発生直後に事件現場のオクラホマシティ郊外で別件で逮捕されたマクベイが、事件の主犯であるとし、大量破壊兵器 (爆弾) を使ったテロの陰謀と実行、第一級殺人など11の訴因で起訴。 


検察側は138人の証人を立て、テキサス州の『ブランチ・ダビディアン事件』の報復として、連邦政府ビル爆破を計画、「第二のアメリカ革命」を引き起こそうとしたと主張。

犠牲者の遺族や生存者、さらに事件発生直後に現場に駆けつけた警官や医師らの証言で、惨事がもたらした悲劇を克明に再現。

「死刑のみが妥当」

とした。


上級裁判所でも判決は覆らず、死刑が確定。陪審員長はこう言った。

「これで枕を高くして寝られるでしょう。法制度がきちんと機能したんですから」


マクベイの死刑は、2001年6月に執行された。

インディアナ州刑務所でのマクベイの死刑には、1400人の報道関係者とやギャラリーが押し掛けた。

また、この死刑は実況中継で、オクラホマシティのホールに設置された巨大スクリーンに写し出された (実際中継されたのは薬殺する前まで) 。

マクベイは無表情で何の感情も見せなかった。


会場には232人の遺族や関係者がおり、マクベイには睡眠薬と筋肉弛緩剤、そして薬物が注入されるのを目撃することができた。

遺族の中にはあまりに穏やかに死んでいったマクベイに、
「電気椅子を使うべきだった!」
と憤る人達もいた。



∽ 総評 ∽

『9・11』が起きた際、何度も本件の事件が話しに出てきたので、そのおかげで覚えている人も多いかもしれない。

もちろんこの事件は当時、日本でも大々的に放送され、かなりの衝撃を受けた記憶がある。

何度も半壊したビルを映し、その威力の凄まじさもそうだが、1人の男 (共犯者はいるが) が、これほどの爆破事件を起こした事に、大いに驚いた。

マクベイを猟奇殺人者とするのは、猟奇殺人者からすれば不満があるだろう。

快楽で人を殺したわけではなく、自分の不満を爆破というものにぶちまけただけで、とっさの衝動的行動に過ぎない。

家庭もそれなりに恵まれており、悲惨な幼少期を過ごした事によって殺人鬼になったシリアルキラー達に比べ、情状酌量の余地もない。

余談であるが、マクベイは刑務所内で、爆弾魔としては先輩にあたる、ユナボマーことセオドア・カジンスキーと会った時のことをこう語っている。
 
「共通点を感じた。俺達が人生に望むのは自分の人生を生きる自由だけだった」



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★★★
・残虐度 ★☆☆☆☆☆☆☆☆☆
・異常性 ★★★★★☆☆☆☆☆
・特異性 ★★★★★★★☆☆☆
・殺人数 168人
(負傷者800人以上)
《犯行期間:1995年4月19日》